鬼平(おにへい)こと長谷川平蔵(はせがわへいぞう)は、作家・池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」により一躍その存在が知られた人物である。
TVドラマで人気を得てシリーズ化され、さいとうたかお作画の漫画も大ヒットとなり、映画化・舞台化・TVアニメ化にまでなっている作品だ。
長谷川平蔵は、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官として本当に実在した人物である。
悪を懲らしめる江戸のヒーロー・鬼平こと長谷川平蔵の真実について解説する。
長谷川平蔵とは
鬼平こと長谷川平蔵は、延享2年(1745年)徳川幕府の旗本で京都町奉行を務めた長谷川宣雄(はせがわのぶお)の長男として生まれ、本名を宣以(のぶたね)という。
長谷川家は400石の旗本で禄高は決して高い方ではなかったが、三河時代から徳川家に仕えた格式高い家柄であった。
平蔵の幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)といい、平蔵(へいぞう)をいう通称は元々は父・宣雄の通称だった。
若い頃は、父が貯めた金で遊廓へ通いつめ、当時はやりの大通と言われた粋な服装をした放蕩無頼の風来坊(遊び人)で、江戸・本所に屋敷を構えていたことから「本所の銕(てつ)」などと呼ばれていた。
28歳の時、父・宣雄が京都西町奉行を務めていた時に死去したため、宣以が家督を継いで父と同じ通称・平蔵も引き継いだ。
家督を継いでからもしばらく放蕩生活をしていたが、父が蓄えた金を使いきり「これではいけない」と思ったのか、それからは旗本として真面目にお役目をするようになった。
将軍を護衛する書院番に就任し、旗本の出世の頂点である町奉行を目指して精進していった。
徐々に出世を重ねて行った平蔵は41歳で御先手組弓頭に任じられ、翌年42歳の時に老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)から加役(兼務)として火付盗賊改方の長官に抜擢された。
火付盗賊改方とは
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)とは、当時重罪にあたる放火犯や強盗犯、博徒を取り締まる役職である。
幕府には有事の際に将軍を護る番方(武官)がおり、その中で先鋒を担当するおよそ30人の先手組という役職があった。
先手組の役目として弓組と鉄砲組があり、そのトップに先手弓頭・先手鉄砲頭がいて、そのトップの中から加役(兼務)という形で火付盗賊改が選ばれていた。
火付盗賊改は武官の性格上、武力で犯人を取り締まることができ、凶悪な事件ほど火付盗賊改が担当した。治安が悪かった江戸では非常に激務で、町奉行では手に負えない事件を担当する特別警察のような存在であった。
火付盗賊改には江戸町奉行所のような決められた役所は無かったので、平蔵は邸宅を役所として利用していた。
部下として与力5~10人・同心30~50人が平蔵の下につき、通常の任期は2~3年だが平蔵はなんと8年もこの激務についた。
1年365日休みがなく、放火・火事・強盗が多かった江戸では夜中でも出動しなくてはならなかった。
なぜ平蔵は悪党を捕まえることができたのか?
幕府の史料によると、平蔵が扱った事件は200件以上で、とても検挙率が高かったという。
真刀徳次郎を捕縛
捕まえた犯罪人の中で最も有名な人物は、真刀徳次郎(しんとうとくじろう)である。
真刀徳次郎は新道流の剣術の使い手で、陸奥、常陸、上総、下総、下野、武州を荒らしまわった大盗賊であり、数十人から多い時で800人の手下を率いていた。
彼らは公儀の御用であるように偽装して移動し、関所などの警戒網をくぐり抜けて押込強盗や海賊行為を重ねていたが、平蔵は江戸から離れた大宮まで追って捕まえたという。
この一件で平蔵は、江戸だけではなく関八州までその名を轟かせた。
葵小僧を捕縛
他には、大松五郎、通称葵小僧(あおいこぞう)を捕えたことも有名である。
葵小僧は、徳川家の家紋である葵の御紋をつけた提灯を掲げて商家に押込強盗を行い、押込先の婦女を必ず強姦するという凶悪な手口で江戸中を荒らしまくったが、平蔵によって板橋で捕縛された。
普通のお裁きは被害者からの供述を取ってから処断されるため時間がかかるが、平蔵は老中と申し合わせてわずか10日ほどで獄門という裁定にしたという。(火付盗賊改は裁定の権限はなかった)
この鮮やかな逮捕劇と迅速なお裁きに人々は大喝采し、平蔵は一躍江戸のヒーローとなった。
高い検挙率の理由
ではなぜ平蔵はこんなにも高い検挙率で凶悪犯を捕まえることができたのだろうか?
それは平蔵の若い頃の放蕩生活にあった。江戸で名うての遊び人だった平蔵は京都にいた頃も遊廓などで遊び呆けていた。
若い頃は賭場に出入りする者たちとも付き合い、裏社会に足を踏み入れていたこともあった。
こうした経験から、平蔵は悪党や犯罪者の心理を読む術を身に付け、悪党がどういった場所に逃げるのかを知っていたのだ。
その嗅覚を活かして平蔵は毎日夕方になると編笠をかぶり、着流し姿で江戸市中をパトロールし、犯罪の火種を目ざとく見つけていったという。
また平蔵は犯罪捜査にかかせない男たちを抱えていた。目明し(岡っ引)を私的に雇って犯罪の捜査に協力してもらっていた。
彼らは裏社会に通じており、中にはかつて平蔵が捕まえた者たちもいた。
本来、目明しを使った捜査は違法捜査であったが、必要不可欠な部分もあるので黙認されていたという。
平蔵は、自身が裏社会に詳しく人脈があったことと、目明しを積極的に使っていたため検挙率が高かったのである。
平蔵最大の功績 人足寄場とその秘策
この頃、天明の大飢饉と浅間山の噴火によって食糧難に陥った人々が地方から江戸に集まってきた。しかし江戸でも仕事は無く生活が困窮し、無宿人という宿無しの犯罪者が江戸の町に溢れ、治安は益々悪化した。
そこで老中・松平定信が「何か妙案はないか?」と幕臣たちに問うと、手を挙げたのが平蔵であった。
平蔵は人足寄場(にんそくよせば)という犯罪者の更生施設を、当時離れ小島であった石川島に建設することを提案した。
平蔵は老中から人足寄場取扱を任命されるとわずか2か月で湿地を埋め立てて施設を建設。広さ約1万6,000坪の広大な施設で犯罪者の自立・更生を行った。
平蔵は「仕事が無ければ出所後にまた罪を犯してしまう恐れがあるから、何か手に職をつけさせれば良い」と考え、男には大工・紙すき・わら細工、女には裁縫と施設内で様々な技術を習得できるようにした。
今でいう職業訓練所であり、手当額の一部を強制的に貯金し、彼らが退所する時にその貯金を交付することで、すぐに仕事を始められるようにしたのである。
人足寄場の在所期間は原則3年だが、成績優秀者はそれよりも早く退所することができた。
収容定員は数百人程度で、だいたい300~400人ほどが収容され、作業所のほかに浴場や病室も設置され、喫煙や煮炊きも許され、暖を取る炬燵(こたつ)も設置されていた。
施設内では生活指導の一環として、石門心学の大家・中沢道二の講義が実施され、社会復帰のための教訓や道徳などを学ばせたという。
こうして平蔵は短期間で成果を挙げ、老中・松平定信に称えられた。
しかし人足寄場を軌道に乗せるまでに、平蔵は資金面で大変な苦労を強いられた。
松平定信は寛政の改革で質素倹約を旨としたために余り予算が貰えず、平蔵は運用資金を捻出するためになんと公金を使って銭相場に手を出した。
それでおよそ500両(今の価値で約5,000万円)を儲けて、その資金を人足寄場のために使ったが、この公金を使った資金集めはいわゆるルール違反であったのだ。
なぜ平蔵は出世できなかったのか
お裁きに関しては基本的に老中にお伺いを立てなければならなかったが、平蔵は凶悪な犯罪者には重い刑を、それ意外の者には比較的軽い刑を申請していた。
そのため平蔵は、江戸の庶民から「本所の平蔵様」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。
そんなこともあって平蔵の町奉行待望論が沸き上がったが、実はその出世に待ったをかけた意外な人物がいた。
平蔵には2度、町奉行へ出世するチャンスがあった。
1度目は火付盗賊改を任命されて2年後の時だったが、検挙率が良すぎたことで逆に「平蔵以外に火付盗賊改の適任者はいない」ということで駄目だった。
その2年後、北町奉行に空きができ再びチャンスが訪れた。しかも平蔵は既に4年も火付盗賊改を務めており人足寄場の実績もあった。それにも関わらずこの時も町奉行にはなれなかった。
平蔵の出世を邪魔した人物は、なんと老中・松平定信で、彼は実は平蔵のことを嫌っていた。
幕閣の人事を担当する老中首座である松平定信は、いわゆる堅物で清廉潔白な人物だった。
彼は平蔵の功績は認めてはいたものの「山師などと言われ兎角うわさが絶えない人物だ」と述べるなど、平蔵をいかがわしい人間だと思っていたようだ。
8年間も火付盗賊改を務めた平蔵は御役御免を申し出て、それを認められた3か月後に長年の激務がたたったのか体を壊してしまう。
平蔵が病気になったことを聞いた11代将軍・家斉は、平蔵に労いの言葉をかけ、高貴薬「瓊玉膏(けいぎょくこう)」という薬を送ったが、その4日後の寛政7年(1795年)5月19日に平蔵は50歳で死去した。
おわりに
長谷川平蔵は、江戸の重犯罪人の検挙率向上や人足寄場の建設・運営など数々の功績を挙げた。
出世はかなわなかったが、的確で人情味あふれる仕事ぶりが認められ、一躍江戸のヒーローとなった。
小説の主人公としても愛された長谷川平蔵は、現代でもヒーローである。
長谷川平蔵と遠山の金さんは若い頃に遊び人だったという共通点があったのですね!
この記事を読むまで「岡っ引き」は役人の下請けみたいな者だと思っていたのだが、実は長谷川平蔵たちが捕まえた比較的罪の軽い元罪人だったとは驚きで、しかも平蔵たちが私的に雇っていたのも驚きでした。
老中・松平定信は「人足寄場」を自分の手柄にしていたみたいだが、実は平蔵が作ったのも同然ではないか。
それだけ平蔵が優秀であり、町奉行にすると人気を独り占めするのかと考え、疎まれたのかな?
でもこの記事を読んで長谷川平蔵はほぼ時代劇通りの人物だったと理解ができました、ありがとうございます。