自宅の窓から見える眺望は、生活に大きな影響を及ぼすもの。
例えば「眺めがいいからここに家を購入したのに、数年もしない内に野暮な建物が視界をふさいでしまった」などと言ったトラブルを経験された方も少なくないのではないでしょうか。
そんな住宅事情は江戸時代にもあったようで、今回は江戸時代の土佐藩士・乾丈右衛門正聰(いぬい じょうゑもんまさあき)のエピソードを紹介。
近隣でも評判の「いごっそう(異骨相。土佐弁で偏屈者)」だったと言いますが、果たしてどんなことがあったのでしょうか。
「いごっそう」乾正聰の生涯を駆け足で紹介
乾正聰は生年不詳、乾加助直建(かすけなおたけ)の長男として高知城下中島町(現:高知県高知市)に生まれました。
宝暦7年(1757年)に第8代土佐藩主・山内豊敷(やまのうち とよのぶ)に出仕し、宝暦10年(1761年)に父の亡くなった跡目を継ぎます。
宝暦12年(1763年)に江戸勤番を命じられるも、地元にいたかったためか願い出て代理の者と役目を交替。この辺りから何だか一筋縄ではいかない感じがしますね。
明和7年(1771年)、叔父の中山右兵衛秀信(なかやま うひょうゑひでのぶ)が「日頃の不行跡(常々家内修方不宜。つねつねかないおさめかたよろしからず)」を理由に咎められた際、惣領の監督不行き届き=連帯責任として謹慎を命じられてしまいます。
現代の感覚では「もういい年した大人なんだから、監督不行き届きでもなかろう」と思ってしまいますが、たとえ年少者であっても、惣領となった以上は家中をまとめ上げる大きな権限と責任がついて回ったのでした。
謹慎は4日後に解かれますが、もしかしたら「今回は叔父さんの件で咎めたが、お前もあまり羽目を外していると、本格的に罰するぞ」という警告だったのかも知れませんね。
その後、安永3年(1774年)に火の御守りとして江戸表へ出張。10年以上にわたり勤め上げていた中、天明7年(1787年)に老中・松平定信(まつだいら さだのぶ)が奢侈禁止令を布告。
ここで土佐人らしい「いごっそう」の反骨精神が鎌首をもたげ、数々の奇行に走って人々を驚かせたのでした。
例えば「駕籠(かご)を使うなと言うなら、舟に乗ってそれを担がせれば問題あるまい!」と本当にやって見せたり、また「婚礼の嫁入り道具を『風呂敷に収まる限り』と言うなら、巨大な風呂敷を用意してやる!」と娘を乗せた駕籠までも風呂敷で包んで届けたり……といった有様。
そんな具合で文化2年(1805年)に亡くなるまで様々なトラブルを惹き起こした乾正聰でしたが、眺望を巡るご近所トラブルは実に痛快なものだったようです。
松の木を伐らされた意趣返しに……
乾正聰の屋敷は高知城の南東にあり、自宅から高知城の天守閣を仰げたと言います。
乾家と高知城の間には家老の屋敷があり、ある時、家老が吸江湾(ぎゅうこうわん。浦戸湾)を一望できるよう2階建ての楼閣を築きました。
「ん?」
家老が楼閣に登ってみると、乾家の隅に立っている大きな老松が視界の邪魔になっています。
「まったく興醒めな……早急に伐らせよう」
使者を遣わして乾家へその旨を伝えました。
「老松の繁柯(はんか)、その視界を遮りて、爲めに眺望を縦(ほしいまま)にすることあたわず、家老乃(すなわ)ち使を乾氏に寄せて懇(ねんご)ろに請ふて其の枝を拂(はら)はん事を欲す」
※『土佐史談』より【意訳】松の枝が生い茂って眺望の妨げになっているから、家老は使者をやって松の枝を剪定するよう要請した。
「懇ろに請ふて」とは言いますが、相手は上司ですから、実質的には命令と変わりません。「いごっそう」な乾正聰はどう出るか……と思われましたが、意外にもあっさりとこれを快諾。
とは言え、乾正聰はこの老松を日ごろからたいそう愛でており、切ると言っても枝先をちょっと申し訳程度に切るくらいだろうな……と思ったら、何を思ってか根っこからバッサリ伐り倒してしまったのでした。
「……これでよろしいか」
「う、うむ」
予想以上のリアクションにより、すっかり眺望がよくなって家老は大満足……と言いたいところですが、あの「いごっそう」がここまで素直に従うとは、一体何を考えているのだろうと、家老は逆に気が気ではありません。
「で、代わりと言っては何ですが……」
案の定、乾正聰の竹箆(しっぺ)返しは即座にやって来ました。
「拙者はこれまで、朝に夕にお城を拝んで日々奉公の志を高め、武芸鍛錬に励んで参りました。しかし近ごろ御老職(家老)が楼閣を建てたため、お城が見えなくなってしまいました。これでは我が至誠を主君に示せず、武芸奉公の妨げとなってしまいますから、拙者が松をバッサリ伐ったのと引き換えに、邪魔な楼閣をお取り壊し下され」
【原文】近頃老職楼閣を築きて、其志を空しうす。何卒前日の厚旨に順ふに替へて、枉(ま)げてその楼閣を毀(こぼち)たれ給へ
※『土佐史談』より
……こう言われてしまっては返す言葉もなく、家老は泣く泣く楼閣を取り壊したのでした。
終わりに
かくして乾正聰は大切な松の木と引き換えに家老の楼閣を壊させることに成功。身勝手な都合で他人の大切なものを顧みぬ権力者に一泡吹かせた、痛快なエピソードとして現代に伝わっています。
そもそも高い楼閣を建てて周囲を見下そうなんて、生来の反骨精神を誇る土佐の「いごっそう」たちを刺激する愚策に外なりません。
乾正聰の「いごっそう」ぶりは息子の乾庄右衛門信武(しょうゑもん のぶたけ)、孫の乾左近兵衛正成(さこんのひょうゑ まさしげ)、そして明治維新の元勲たる曾孫の板垣退助(いたがき たいすけ)へと受け継がれ、土佐人の気概を天下に示したのでした。
※参考文献:
- 宇田友猪『板垣退助君傳記 第一巻』原書房、2009年9月
- 山本泰三『土佐の墓 2』土佐史談会、1987年7月
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