文化
450年間、南西諸島に存在した国家「琉球王国」。
沖縄を中心とした島嶼からなるこの小さな王国は14世紀後半に中国明朝との冊封関係を築いて以降、東アジア・東南アジア地域で各地の特産品を転売する中継貿易を展開し、東アジア有数の交易国家として栄えた。
1458年に第一尚氏6代目・尚泰久王の名で鋳造された「万国津梁の鐘」の銘文には、琉球が朝鮮の優れた文化を集め、日本や中国と親密な関係を築く「蓬莱の島」であり、また船を持って「世界の架け橋」となり、国内には至る所に海外の宝が溢れていると記されており、交易で繁栄していた様子がうかがえる。
しかし16世紀後半になると、日本の石見銀山開発を契機としてアジア諸国で銀取引が急増し、民間海商が台頭する。その結果、中継貿易は衰退していくこととなる。
その後、薩摩藩の侵略をうけ、中国との関係を続けながら日本の幕藩体制にも組み込まれることとなった。そして衰退した貿易に代わり、黒糖やウコンそを生産して輸出する様になった。
中国からの使節団
琉球文化の特徴は、さまざまな由来をもつ文化的要素をミックスさせていたことである。
例えば16世紀の国王が発給した公文書では、日本の平仮名文を使いながら中国明朝の年号を使用している。琉球の公文書は日本でも中国でもない、独自の形式だった。
沖縄港近くの那覇市久米は14世紀頃に中国福建地方の中国人集団が居住しており、当時は久米村という中国人の集落だった。彼らは中国などとの外交を担った他、琉球王国の政治や経済、文化にもさまざまな影響を与え、食文化にも多くの影響を与えている。
琉球王国の時代、琉球国王の冊封にため使節団である冊封使が琉球を訪れていた。使節団は総勢400人あまり、半年の間沖縄に滞在したという。
彼らが滞在中には、首里城北殿や天使館など各地で「七宴」と呼ばれる国王の七つの大宴が開かれ、そこでは、三十数品にも及ぶ中国風の料理が振る舞われていた。
国賓の歓迎には欠かせない食については、料理人を中国に派遣し学ばせるほど力をいれていた。琉球版「満漢全席」とも呼ぶべきこの料理は、国王の王冠を携えた冊封使の乗る船の名を由来として、「御冠船料理」と呼ばれた。
こうして、琉球王国時代に中国の冊封使をもてなすための「宮廷料理」が生まれ、「七宴」では色鮮やかで華やかな紅型衣装を身にまとった琉球舞踊が演じられたほか、のちにユネスコ無形文化遺産にも登録される組踊が誕生し、演じられた。
守礼の心
首里城の一番最初の門「守礼門」には「守礼之邦」という扁額が掲げられており、この扁額には「琉球王国は礼節を重んじる国」という意味がある。
これはかつて、外交が盛んだった琉球王国がお客様を首里城に迎え入れる一番最初の門で「私たちの国は礼節を重んじる国です。滞在中は最高のおもてなしをさせていただきます」という決意表面である。
琉球王国の時代より多くの使節団を迎えた「おもてなしの心」は、今も沖縄県民の心に引き継がれている。
沖縄の守り神シーサー
琉球王国の時代から生活の溶け込んでいたように思えるが、一般の住宅に飾られるようになったのは明治時代後半ばからだという。
現在の沖縄の古民家は赤瓦の屋根が印象的だが、琉球王朝は庶民の家の大きさを制限し、瓦ぶきの屋根も禁じていた。
赤瓦の家が増えたのは1889年(明治22)に規制が撤廃されてから。そして、屋根瓦職人が余った漆喰と瓦を使って、屋根の上にシーサーを手作りするようになり、一般家庭に普及していった。
シーサーは、古代オリエントの獅子像が中国を経由して、沖縄に伝わったと推測される。獅子像はシルクロードを経て、少しずつ姿を変えていく。実際のライオンを知らない地域に伝わったことで、どんどん霊獣化して魔除けの守り神となった。そこから民間信仰へと変化していった。
本土の狛犬なども起源は同じだが、沖縄は中国から直接伝わったのに対し、本土へは朝鮮半島を経由しているので多少ルートが違うとされている。
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