風邪をひいてもお腹を壊しても「2、3日も寝てれば直る」と言う人も、こと歯に関してはそうはいきません。
歯周病にしろ虫歯にしろ一度失くした歯は、放って置いても2度と元には戻りません。
江戸時代の人もこの事は良く知っていて、「一生自分の歯で食べられるように」と歯の手入れを大事にしていました。
そもそもだれが歯ブラシを使いだした?
最初に歯ブラシを使いだしたのはお釈迦様だそうです。
読経の前に口の中を清浄にするために、菩提樹の小枝で作った歯木(しぼく)で口中掃除をなされました。「菩提樹の小枝」ってのが良いですね。その後、弟子の口が臭いので、彼にも歯を磨くことを勧め、それを戒律として定められました。
日本への仏教伝来の時に歯磨きの戒律も一緒にやって来たとされています。最初は僧侶、次に公家、庶民へと広まって行きました。
この話とは別に、日本では縄文・弥生時代から歯を磨いていたとの説もあります。
江戸時代以前の庶民は、食後にお茶や湯で口をすすいだり、指に塩を付けて歯をこする程度だったとされています。
繊維質の多い食品をよく食べていたので自然に歯の掃除にもなりましたし、歯周病で歯を失くす前に、寿命が尽きる人も多かったのでしょう。
柳の枝で房楊枝
江戸時代、現代と違って石油由来の品物の無かった当時、人々は身の回りにある物を工夫して歯磨きを行っていました。
歯ブラシとして使ったのは「房楊枝」(ふさようじ)と言って、原料はカワヤナギの木の枝です。日本全国の川辺に広く分布していて、適度な弾力と枝の細さが便利だったのでしょう。
作り方は簡単で、程よい長さに切った枝を煮て柔らかくし、その端を木か石の台の上に乗せ、小さな木槌で叩いて砕き房状にします。もう一方の端は尖らせて、こちらは普通に楊枝として歯の間に挟まった食べかすを掻き出します。その後に房状の部分で、歯の表面の汚れを落とす歯ブラシとして使いました。
簡単な細工と言っても、均一に適度な柔らかさに砕くにはそれなりの技術が必要だったようで、楊枝屋の店先で職人らしい男が、木槌を振るっている絵が残っています。素人が適当に叩いても作れそうに思いますが、ちゃんと店を構える商売として成り立つ程度には儲かっていたようです。
使っているうちに房がボロボロになって来れば、その部分を切り落とし、また端を叩いて新しく房を作る、何度でも再生可能のスグレモノでした。しかしそこを敢えて毎日使い捨てるのが、江戸っ子の“粋”だったとか。
この房楊枝は材料も簡単に手に入り、値段も手ごろだったので、明治時代に入っても使い続けられました。
やっぱり美人が良い?
楊枝屋の絵の話をしましたが、面白いのは掛小屋のような店先で若い美人が職人兼売り手として、房楊枝を売っている浮世絵が残っています。ちょっと練習すれば誰でも出来る房楊枝作りでしたが、それにしてもなぜ美人が多かったのでしょうか?
楊枝屋が多く集まっていたのは浅草観音の境内で、『江戸名所図会』には、何件もの楊枝屋が軒を連ねている絵が残っています。
現代でもそうですが、当時も浅草寺は観光名所。参勤交代の主君のお供をして江戸へやって来た地方の下級侍も見物に来ます。
そんな彼らの、国元への恰好の土産品となったのが房楊枝だったとか。
江戸のものともなれば、地方ではそれなりに珍しがられ、値段も安くお土産としては手軽だったのです。
ここで顔を出してくるのが先ほどの美人さん。
地方の下級武士が、江戸前の綺麗な女の人と口がきける。しかもこちらは客ですから丁寧に接してもらえる。
売り上げは何倍にも伸びたでしょう。
最古の入れ歯
せっせと手入れをしても歯は抜ける時には抜けます。
そこで入れ歯の出番となるのですが、世界最古の入れ歯が、地中海に近い古代フェニキアのシドン(レバノン・サイダ市)近郊の、紀元前5世紀頃の墓から出土しています。下の前歯を金の針金で両脇の健常歯に固定したもので、なかなか細かい細工です。
日本ではと言うと、紀伊国(和歌山県)願成寺(がんじょうじ)の尼僧・仏姫(ほとけひめ)が使っていた、「木床義歯(もくしょうぎし)」の入れ歯が残っています。文字通り黄楊(つげ)の木で作ったもので、歯の部分と歯肉の部分が一木から彫り出されており、奥歯が磨り減っているので、実際に使われていたと思われます。
仏姫が亡くなったのが天文7年(1538年)、戦国時代の真っ只中ですが、このころの入れ歯は、仏師が副業として作っていました。
江戸時代になると、入れ歯専門の「口中入歯師」と呼ばれた職人が現れ、歯茎を木製(黄楊の木、割れにくく細工もしやすかった)、歯を蝋石や動物の骨、人間の抜けた歯などで作りました。
顎の形も、蜜蝋や白蝋・松脂などを混ぜたものでちゃんと本人の口から型取りし、入れ歯と合わせて具合を確かめながら、仕上げて行きました。
浮世絵には、美人の朝化粧や身支度をする図が何枚も残っていますが、歯を磨く図も結構残っているのです。
江戸の人々は美人が口をすすぐ姿に、そこはかとない色気を感じたのでしょうか。
・参考文献 : 江戸名所図会 /『医心方』事始
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