二代将軍に就任
慶長8年(1603年)2月、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。
そのわずか2年後の慶長10年(1605年)4月、27歳になっていた秀忠が家康に代わって二代将軍に就任した。
この将軍交代は豊臣の世が終わり、徳川家が政権を担い続けることを天下に知らしめた。
秀忠に将軍職を譲った家康は「大御所」と呼ばれ、やがて駿府城へ移った。
秀忠が二代将軍として徳川政権を運営すると思いきや、その後も幕府の実権を握っていたのは大御所・家康だったのである。
家康の傀儡
家康は駿府城で政(まつりごと)を続けた。
この頃は大御所のいる駿府城と将軍のいる江戸城、二つの政庁があり「二元政治・二頭政治」と言われたが、二人(家康と秀忠)の力関係は対等ではなかった。
実際は圧倒的に家康が上で、幕府の実権は完全に家康が掌握していた。
江戸城には秀忠付きの家老・大久保忠隣と家康の腹心・本多正信など、家康の意図を理解できる譜代の重臣たちが置かれていた。
一方、駿府城には若手の官僚(本多正純ら)、僧侶(天海と崇伝)、儒学者(林羅山)、豪商(茶屋四郎次郎ら)、外国人(三浦按針とヤン・ヨーステン)などで構成された、政策ブレーンを置いた。
そして、その政策ブレーンたちが発案した大名統制政策や外交方針などを、江戸城の秀忠と重臣たちに伝えて実行させたのである。
このような状態でも秀忠は大御所政治に反発しなかった。秀忠は自分が見せかけの将軍だということを自覚していたため、家康に反発する気はなど全くなかったのである。
「家康の傀儡」と言われても、江戸と駿府の家臣団が丸く収まると考えていた。
しかも秀忠は、家康の性格や振る舞いなどを徹底的に研究した。
例えば家康が怒る時に立ち上がるしぐさや言い方などを模倣し、江戸城では家康になりきることで、家臣たちの信頼を得ようとしていたのである。
汚名返上を狙う
30代半ばになった秀忠に、汚名返上の好機が訪れる。
それは、徳川家と豊臣家の戦い「大坂の陣」である。
豊臣恩顧の大名たちもまだ健在な豊臣家を危険視していた家康は、慶長19年(1614年)10月11日、豊臣秀頼と淀殿がいる大坂城を攻めるため、20万の大軍を率いて駿府城を出立した。
家康は10月23日には京都・二条城に入ったが、秀忠は江戸城を留守にする準備に手間取り、家康が二条城に入ったその日に6万の軍勢を率いて江戸城を出立した。
今度こそ遅参できない秀忠は、家康の側近に書状を送る。
そこには「私が到着するまで開戦を待って欲しいと父上に伝えてくれ」と書いてあったという。
しかも、同じような書状を何度も送りながら先を急いだ。
しかし、またもや秀忠はやらかしてしまう。
秀忠は馬廻役や歩兵に240人ほどの健脚自慢を選抜し、遅れずについて来た者には褒美を与えるとして先を急がせた。
家臣たちは一生懸命遅れないように走ったが、秀忠に遅れずについて来た者はわずか30人ほどであったという。
二条城でこの話を聞いた家康は「人馬が疲弊すると統率が取れなくなるから無茶はするな!」と秀忠に伝えた。
しかし、普段は従順な秀忠だったが、この時ばかりは父の言葉を黙殺し、わずか17日間で6万の軍勢を京都まで進めた。
11月19日、大坂冬の陣が開戦した。
約20万の徳川軍、それに対して豊臣軍には豊臣恩顧の大名は誰一人参集せず、元々徳川に恨みがあった者や金銀目当ての浪人衆ら約10万の軍勢であった。
10万の豊臣軍は大量の鉄砲で応戦した。しかし家康は豊臣軍が鉄砲を大量に使うことを事前に予想し、鉄製の盾を大量に作らせていたのである。
しかし、秀忠は「鉄の盾など必要ない」と受け取らなかったという。
豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の南に造った砦・真田丸で、徳川軍は多数の犠牲者を出すなど激戦が続き、結局両者は和睦という形で冬の陣は終わった。
翌年の5月、家康は再び全国の諸大名を参集させ、大坂夏の陣が勃発する。
汚名返上を果たしたい秀忠は「激戦地を任せて欲しい」と家康に願い出るが、家康が首を縦に振ることはなかった。
その理由は後継ぎである秀忠を危険に晒したくはなかったとも、家康自らが豊臣家との決着をつけたかったからとも言われている。
激戦の末、大坂夏の陣は徳川軍の勝利に終わり、豊臣秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡した。
結局、秀忠は2度に渡った大坂の陣でも目立った武功を挙げることはできなかった。
それから暫くして、家康は病に伏せるようになる。
家康は秀忠の側近に「これからは何事も将軍(秀忠)が決めよ。わしに伺いを立てる必要はない。江戸で決めたことを駿府に伝えてくれれば良い」と言ったという。
これは家康の引退宣言だった。
秀忠 豹変する
元和2年(1616年)3月、家康は病で床に伏せっていた。
そして秀忠を枕元に呼び「わしが死んだら天下はどうなると思うか?」と問いかけた。
秀忠は「乱れると思う」と答えた。
その答えを聞いた家康は満足げに一言「ざっと済みたり」と言ったという。
「ざっと済みたり」の意味は、「そう思っていればよろしい」という意味だと考えられている。
天下が乱れることを覚悟していれば、本当に乱れた際に慌てずに対処できるだろうと家康は考えていたのだ。
4月17日、家康が死去、享年75。
こうして秀忠は名実共に幕府の頂点に立った。しかし家康の陰に隠れていた駄目な二代目から秀忠は豹変し、苛烈な大名統制を始めるのである。
まず秀忠は実の弟である家康の六男・松平忠輝を改易・流罪に処す。
忠輝は大坂夏の陣に遅参して十分な働きができず、怒った家康から謹慎を申し渡されていた。
秀忠は忠輝の所領約75万石を取り潰し、更に伊勢へ流罪としたのだ。
この処遇は、不届き者は身内や親藩でも許さないという見せしめだった。
次に秀忠は、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に大きく貢献した福島正則に対して、居城・広島城を無断で修築したというだけで50万国を没収し改易した。正則に対しては弁明の機会すら与えなかったという。
その後も秀忠の大名統制は続き、親藩・譜代の大名でもお構いなしで取り潰した大名家は41家、没収した石高は合計439万石となった。
一体、何が秀忠を苛烈な大名統制に走らせたのだろうか?
家康は、天下取りまでの過程で諸大名たちの中に恩がある者や世話になった者たちがいたため、あまり強い大名統制はできていなかった。
秀忠は自分が家康のような才覚やカリスマ性がないことをよく分かっていた。
父・家康と同じやり方では諸大名を統制できないと考え、力で抑え込む方法を選び、それを実行に移したのである。
秀忠は、諸大名にほとんどしがらみがなかったのである。
秀忠の大名統制によって将軍と幕府の権威は一気に高まり、揺るぎない幕府の基礎が作り上げられたのである。
幕府の安定を図る
秀忠は、家康が行っていた一握りのブレーンによるトップダウン方式を改め、老中などの集団合議制を採用した。
これによって将軍の才覚に左右されない安定した政治が行えるようになる。特に秀忠には頭の切れる土井利勝が側にいたことが大きく、老中として常に意見を言ってくれたのだ。
また、秀忠は中国船以外の外国船の入港を平戸と長崎に限定し、キリスト教排除に力を注ぎ、これが後の鎖国政策の基礎となった。
秀忠は戦国時代を生き抜いた名将や猛将たちの言葉に謙虚に耳を傾け、政について貪欲に学んだ。
実直で真面目な性格であった秀忠は、生誕の日である4月7日に「今日くらいはのんびりお過ごしください」と、家臣たちからねぎらいの言葉をかけられても「将軍たる者は死ぬ瞬間まで政を行う義務がある」と言って休まなかった。
病になっても「天下の主が長生きを望んで政をおざなりにするなど、畜生にも劣る行為だ」と言って普段通りに政務をこなしたという。
大御所と最期
元和9年(1622年)嫡男・家光が三代将軍に就任した。
秀忠は45歳で大御所となったが、家臣たちからの希望もあってそのまま政を続けた。
だが、50歳を過ぎた頃から胸に激しい痛みを感じるようになり、片目も失明したが、それでも毎日身なりを整えて政務を行った。
病には勝てず死期を悟った秀忠は家臣たちに
「我が命は幾ばくもないが、今一度東照宮を詣でて、ここまで天下の安寧を保ってきたことを父上に伝えたい」
と言ったという。
秀忠は父・家康に認めてもらいたいと、ずっと思っていたという。
病の床に伏せっていた秀忠の元に、幕政に参与していた天海僧正が見舞いにやって来た。
そして秀忠に
「大御所様(秀忠)は家康公のように神号をお受けにならないのか?」
と問うた。これに対し秀忠は
「我はただ先代の業績を守ってきただけでなんの功徳もなく、神号などとんでもない、人はとかく上ばかりに目が行くが、己の分際を知らぬことが一番恐ろしいこと」
と言って神となることを辞退したという。
寛永9年(1632年)1月24日、秀忠は享年54でこの世を去った。
おわりに
徳川秀忠は、何事につけ父・家康を尊重し「傀儡将軍」となることを受け入れ、家康の死後は強権を発動して幕府の基礎をしっかりと築いた。
秀忠の実直さ・謙虚さ・賢さがあったからこそ、江戸幕府は260余年も続いたと言っても過言ではない。
徳川秀忠はとても立派な二代目だったのだ。
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