今回は前編に引き続き後編である。
旗本・板倉勝該(いたくらかつかね)は、兄の遺領6,000石を相続したが日頃から凶病の気があり、家を治めていけるような状態ではなかった。
そのため、板倉本家の当主である陸奥国泉藩2代藩主・板倉勝清は、勝該を致仕させて自分の庶子に跡目を継がせようとしていた。
それを恨みに思った勝該は勝清を襲撃しようと計画し、江戸城の月例拝賀式で背後から切りかかったが、絶命していたのは勝清ではなく、なんと熊本藩主の細川宗孝だったのである。
なぜこのような間違いが起こってしまったのだろうか?
似ていた家紋
板倉家の家紋は「九曜巴(くようともえ)」、細川家の家紋は「九曜(くよう)」であり、二つの家紋は真ん中に大きな○があり周囲を8つの円で囲ったもので、似ていたのである。
しかし板倉家の家紋は、円の中に模様がある(人魂が3つ集まった形)ので、近くで見れば間違うことはなかったと思われれる。
しかし日頃から狂病であった板倉勝該は、同じ家紋だと勘違いして背後から細川宗孝を討ち取ってしまった。
宗孝が襲撃され殺害された報は江戸市中に広がり、噂好きな江戸っ子はさっそくこれを川柳にして「九つの星が十五の月に消え剣先が九曜にあたる十五日」と詠んでいる。
この事件後、細川家は家紋の「九曜」の星を少し小さめに変更し、さらに通常は裃の両胸・両袖表・背中の5か所に家紋をつける「五つ紋」を、両袖の裏にも1つずつ付け加えて後方からでも一目で分かるようにした。
この独特の細川家の裃は「細川の七つ紋」と呼ばれた。
もう一つの説
実はこの刃傷事件には、もう一つの説がある。
勝該は、人間違えをしたのではなく「最初から細川宗孝を殺すつもりだった」という説である。
江戸の白金台町にあった勝該の屋敷は熊本藩の下屋敷の北側の崖下にあり、大雨が降る度に熊本藩の下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちていた。
勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、それを無視されたために熊本藩主の細川宗孝を襲ったというものである。
どちらが真相かは闇の中だが、「家紋を間違えて衝動的に刃傷に及んだ」というのが通説となっている。
事件後、勝該は岡崎藩主・水野忠辰宅に預けられ、8月23日に同所で切腹となり、お家は改易となった。
救いの神
亡くなった細川宗孝にはまだ子がおらず、養子も立てていなかった。
参勤交代で江戸に行く時には藩主に何かあっては困るので、子のない大名は幕府に養子の申請書のような文書を提出しなければいけなかった。
だが、細川家はまだその文書を提出していなかったので、このままではお家断絶・改易の大ピンチとなった。
この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村であった。
宗村は機転を利かせ「越中守殿(宗孝)はまだ息がある、早く屋敷に運んで手当せよ」と、細川家の家臣に助言したのである。
これを受けて家臣たちは宗孝の遺体を江戸城内から熊本藩邸に運び込み、その間に藩主・宗孝の弟・紀雄(後の重賢)を末期養子として幕府に届け出たのである。
そして翌日になって「宗孝は介抱の甲斐なく死去した」と報告した。
その頃には幕閣たちも人違いという事情を確認しており、細川家は改易の危機から脱することが出来た。
伊達宗村のとっさの機転は、細川家にとって救いとなったのだ。
おわりに
江戸城内で起きた5番目の刃傷事件は、なんと家紋を見間違って別人を殺害、しかも殺害された方が改易の危機に直面するという事件であった。
本家の板倉勝清は、日頃から狂気の振る舞いをする板倉勝該を「屋敷内に閉じ込めておけ」と勝該の家臣たちに命じていたが、勝該は何かと理由をつけて登城したという。
殺されるはずだった板倉勝清はお咎めなしで、その後は順調に出世し老中にまで登り詰めている。
養子となった細川重賢は藩主に就任すると熊本藩を立て直し、江戸中期屈指の名君と呼ばれる人物になるのである。
関連記事 : 人違いで藩主を殺した刃傷事件 「板倉勝該事件」 ~前編
結果的には当事者以外の関係者(国)は皆良い方向になったというのが何とも・・・
特に熊本藩は重賢が登場しなければ財政破綻待ったなしの状態でしたしね
歴代最高の名君がこんな形で誕生するのも運命の皮肉ではありますね
私も本当にそう思います。家紋は当時似たものが多かったはずで、いくら病んでいたとはいえ、間違えて殺さないでしょう?
トイレの下水以外の何か裏が?と思うと歴史は本当に楽しいね。