およそ260年という泰平の世が続いた江戸時代。
その中心となった「江戸」は、江戸時代中期には1,600以上の町が出来て、人口100万人を超える当時世界一の都市であった。
都市化が進んだことで、貧困や飢餓など現在でも世界中が抱えている問題も起きたが、江戸の町に暮らした人々は様々な知恵を用いてそれらを解決したという。
今回は江戸の庶民(町人)たちの生活や暮らしの知恵について、前編と後編にわたって解説する。
住居
江戸時代、多くの町人たちが暮らしていたのがTVドラマなどでよく登場する「長屋」である。
「長屋以外の住まいはなかったのであろうか?」と思うほどに庶民のほとんどが長屋住まいであった。
江戸時代、土地は基本的には全て幕府の所有地で、個人は土地を持ってはいなかった。
幕府が大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという図式だった。
つまり、一般庶民にとって土地は借りるものであり財産ではなかったのである。
しかし例外もあり「町人地」と呼ばれる地域は土地の私有が認められ売買もできたが、建物の価値はほとんど認められてはいなかった。
町の表通りに面していたのは「表長屋」とか「表店」と呼ばれた2階建ての建物で、1階が商店で2階が住居になっていた。
その裏手に建っていたのが「裏長屋」とか「裏店」と呼ばれた平屋で、表長屋よりも安く庶民の多くはここで暮らしていた。
その間取りは間口9尺の奥行2間で俗に「9尺2間」と呼ばれる3坪ほどの広さで、6畳一間に竈(かまど)と流しがついた土間がある狭小住宅だった。
そこに暮らした町人たちのほとんどは裕福ではなく、質素な生活で物を大切にしていたのである。
様々な職業
だが江戸の町人たちには貧しい暮らしが生んだ長屋の知恵があった。
1つ目は、今で言う「リユース」である。
江戸っ子たちは壊れたからといってすぐに物を捨てないのが当たり前、何度でも修理して使っていた。
そのために様々な修理業者が町を行き来して、家に来てさっとその場で直してくれていた。
例えば「焼きつぎ屋」という修理業者は、「焼きつぎ」という方法で割れた陶器を直してくれた。
修理に使うのは、鉛ガラスの粉末と「ふのり」という海藻を混ぜた液体で、それらを使って修理した。
修理をする人が多かったので、江戸の町では陶器の新品はあまり売れなかった。
「下駄の歯入れ屋」という業者は、壊れた下駄や鼻緒が切れた物を修理してくれた。
「提灯の張替え屋」は、提灯の張替えや修理、屋号を提灯に書く仕事であった。
江戸の町で一番重宝がられたのは、鍋や釜などの鋳物製品の修理をする「鋳掛屋 : いかけや」であった。
当時の鍋や釜は盗賊が盗むほどの貴重品だったため、穴が開いても容易に捨てずに鋳掛屋に修理を頼んだという。
他には、キセルを修理する「羅宇屋」、そろばんを修理する「そろばん直し屋」、家庭から出た灰を集めて販売する「灰買い」、鉄の廃品回収業者「取替兵衛(とっかえべえ)」と呼ばれる業者は、子供たちが持って来た使い古した鍋や釜などを飴やおもちゃと交換していた。
紙は江戸時代にはとても高価で、使い古した紙を買う「紙屑買い」という業者は、古紙を細かくして釜で煮て再生紙が作っていた。
また「おちゃない」と呼ばれた女性たちは、家庭から出た髪の毛を買い求めて、それを集めてつけ毛やかつらに利用した。
離婚や隠居でいらなくなった古着・古道具・屑などの品物を安く値踏みして何でも買い取ってくれる「見倒し屋」という職業もあった。
江戸の町には独身の男性が多く入って来たので、生活に必要な布団・鍋・釜・着物など何でもレンタルできる「損料屋」もあった。長屋の大家が紹介してくれたそうだ。
このように物を大切にし何度でも修理して使う「リユース」を駆使して、庶民たちは貧しい暮らしを乗り切っていたのだ。
江戸の庶民が最も「リユース」したものは着物だった。
着物の新品はとても高価でなかなか買うことができず、江戸には神田川沿いに「古着屋」が数多くあり、そこで買ってきた着物を縫い合わせて着ていた。
余った布地などは子供のために使い、それ以外は下駄の鼻緒にし、最後は薪の炊きつけにと全部無駄なく使ったという。
江戸の町は、まさに循環型のリサイクル社会だったのである。
ここまでは主に庶民目線の江戸時代の生活の知恵だったが、後編では幕府側からの視点で解説する。
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参考文献 : 環境先進国・江戸 (読みなおす日本史)
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