華岡青洲とは
華岡青洲(はなおかせいしゅう)とは、江戸時代の文化元年(1804年)に世界初の全身麻酔を使用した乳癌手術を成功させた医師である。
華岡青洲の手術の成功から約40年後に、欧米で初めて全身麻酔が行われている。
手術によって患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考えた華岡青洲は、麻酔薬の開発を始めて研究を重ねた結果、6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した。
今回は、世界初の全身麻酔を使った乳癌手術を成功させ「医聖」と呼ばれた華岡青洲について解説する。
出自
華岡青洲は、宝暦10年(1760年)紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)の医師・華岡直道の長男として生まれた。
諱は「震(ふるう)」、字は「伯行」、通称は「雲平」だが、ここでは一般的に知られる号の「青洲(せいしゅう)」と記させていただく。
青洲の祖父・雲仙翁が初めて医師を業とし、父・直道は松本家の娘・於継と結婚し、華岡家の家業である医師を継いだ。
青洲は幼い頃より才知が優れ見識もあったが、なにぶん田舎のために師友に乏しく、最新の医学を学ぶことが出来なかった。
そこで青洲は天明2年(1782年)京都に遊学に出ることにした。
京都では吉益南涯に古医方を3か月学び、大和見水にカスパル流外科を1年間学ぶ。
更に、見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」を学び、その後も長らく京都に留まり医学書や医療器具を買い集めた。
青洲は学識を磨くこと数年間、寝食を忘れて没頭するほどであったという。
そこで悟ったのは、世の中の医者の論じるところは古い方法に閉じこもり、古い医学書に馴染むばかりで、これを活かすことが出来ないということ。
また内科・外科に分けて合一するという理法を知らないことなどであった。
これでは、病気を治し長患いを救うことは出来ないということに至ったのである。
青洲がその中で特に影響を受けたのが、永富独嘯庵の「漫遊雑記」であったという。
そこには乳癌の治療法の記述があり「欧州では乳癌を手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれていた。
このことが後の青洲の伏線となるのである。
麻酔薬の開発
乳癌を根治するほど大きく切るには、患者が受ける耐え難い痛みを解決しなければ不可能であった。
青洲は、麻酔法の完成こそが癌治療を進歩させる最重要の課題だと考えるに至った。
天明5年(1785年)2月に青洲は帰郷して父・直道の後を継いで開業した。
「手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたい」と思った青洲は麻酔薬の開発に着手する。
青洲は色々な薬草を研究した結果、曼荼羅華の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず・トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に、麻酔の効果があることを発見した。
そして動物実験を重ねて麻酔薬の完成までこぎつけたが、人体実験を前に青洲は行き詰まる。
動物実験では良い効果を得られていても、いざ人体で実験するとなると大きなリスクが生じる恐れがあるからだ。
するとなんと青洲の実母・於継と妻の加恵が自ら実験台となることを申し出たのである。
青洲は苦悩するが、覚悟を決め実験台となってくれた母と妻に、数回に渡って人体実験を行った。
母・於継は残念ながら亡くなってしまい、妻・加恵は失明してしまったが、大きな犠牲な上に全身麻酔薬「通仙散」、別名:麻沸散(まさつふん)を完成した。
※母と妻が人体投与試験に参加したことを裏付ける資料は見つかっていない。
青洲は中国の医師・華侘の医術を意識しており、通仙散の別名:麻沸散とは華侘が使ったとされる麻酔薬の名である。
享和2年(1802年)9月には、青洲は紀州藩主・徳川治宝に謁見して士分に列し帯刀を許されている。
世界初の全身麻酔手術
青洲は文化元年(1804年)10月13日、大和国字智郡(現在の奈良県)五條村の60歳の女性に、通仙散による全身麻酔での乳癌手術を行い成功する。
※ただ、この女性は手術を受けた時にはすでに末期症状で手術の4か月後に亡くなった。
これは、1846年にアメリカのウィリアム・T・G・モートンが、ジエンチルエーテルを用いた麻酔の手術よりも40年以上も前であった。
青洲の前にも中国の医師・華侘や、インカ帝国、琉球で麻酔手術が行われたという伝承はあるが、いずれも詳細は不明となっており、実例として証明された全身麻酔の手術はこれが世界初だとされている。
この噂はあっという間に広がり、青洲のもとには乳癌の手術を希望する人たちが多数訪れ、青洲に入門を希望する者も続出したという。
青洲が乳癌の手術を行った患者は143人で、術後の生存期間が判明する者だけを集計すると最短で8日、最長で41年、平均すると約3年7か月となる。
また、青洲は乳癌だけではなく膀胱結石、壊死、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行い、オランダ式の縫合術やアルコール消毒なども行っている。
青洲の医術
文化10年(1813年)青洲は紀州藩の「小普請医師格」に任用されるが、青洲の願いによってそのまま自宅で治療を続けても良いという「勝手勤」を許されている。
文政2年(1819年)には「小普請御医師」に昇進し、天保4年(1833年)には「奥医師格」となった。
青洲の医塾「春林軒(しゅんりんけん)」では、1,000人を超える門下生を育て上げた。
青洲は常に「内外合一活動窮理」を唱え、日本伝統の漢方医学と外国から伝わったオランダ医学を区別せず、机上の空論ではなく実験や実証を重んじることを弟子たちに説いた。
青洲が完成させた麻酔薬「通仙散」の配合は、弟子の本間玄調の記録によると、曼荼羅華が八分、草烏頭が二分、白芷(びゃくし)が二分、当帰(とうき)が二分、川芎(せんきゅう)が二分であった。
これを細かく砕き、煎じて滓(おり:沈殿したもの)を除いたものを温かいうちに飲むと、2~4時間で効果が現れた。
だが、やや毒性が高かったらしく、その扱いは相当難しかったという。
しかも曼陀羅家華のどの部分を利用したのかなど、それぞれの正確な調合分量は記録されておらず、通仙散の現物も残されていない。
青洲の弟子からは、本間玄調・鎌田玄台・館玄竜・熱田玄庵・三村玄澄といった優れた外科医が輩出されている。
その中でも特に優れていたのが本間玄調で、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い医術についての著作も残したが、著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したために破門となっている。
しかし青洲は医術の詳細を書物に書き残さなかったため、本間玄調の著作は今日青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料になっている。
青洲は秘密主義的な面を持っており、門下生たちに対して「通仙散」の製造方法を友人や家族にすら教えてはならないという血判まで提出させていたという。
天保6年(1835年)10月2日に青洲は家人や多くの弟子たちに見守られながら76歳で死去した。
青洲の後は次男・修平が継いだ。
おわりに
華岡青洲は、世界初の全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功し乳癌手術を成功させたが、その開発には人体実験に協力してくれた「実の母の死と妻の失明」という大きな代償があった。
青洲の死後から84年たった大正8年、その功により正五位を追贈された。
昭和27年には外科を通じて世界人類に貢献した医師の1人として、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属栄誉館に祀られた。
その後、昭和41年に出版された有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」がベストセラーになったことで、それまで医学関係者の中だけで知られていた華岡青洲の名前は、一般に知れ渡ることになったのである。
参考文献 :
華岡青洲の妻
華岡青洲~その医学と思想
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