江戸時代

江戸の英雄、庶民の憧れ!江戸の火消しとは 【江戸に火事がめちゃくちゃ多かった理由】

江戸の町では、その267年間の歴史の中で火事が頻発していた。

その回数はなんと49回の大火、大火以外の火事も含めれば1798回を数える。江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」はその都度、江戸を焼き尽くす勢いであった。

特に1657年の明暦の大火は日本史上最大規模で、犠牲者は10万人以上といわれる。

今回はそのような火事に立ち向かう、当時の消防隊・火消しを紹介する。

江戸の火事が多かった理由

画像 : 明暦の大火

江戸に火事が頻発した理由は、大きく分けて2つある。

1つは急激な人口増加である。1630年頃の町人の人口で約15万人、1720年頃の町人の人口は約50万人に達した。

更に武士身分の人々が約50万人住んでいて、合わせて約100万人が住んでいたのである。

これは世界的に見てもトップクラスの超過密都市であり、町人の住む長屋はすし詰め状態であった。そのため火事が起きれば一気に燃え広がった。

そしてもう1つの理由は、関東平野特有の気象も火災である。江戸の夏は雨が多いが冬は乾燥して晴天が続く。更に春先にかけては北からの空っ風、南からの春一番が吹き、この条件下で現に江戸で1番火事が多かったのは3月であった。

しかし当初の江戸の町には、消火組織自体が無かったのである。

消火組織の発足

イメージ画像

1629年、江戸の町で最初の消防組織が結成され「奉書火消」と呼ばれた。奉書火消は10数家の大名家から出された者達により編成された組織であった。

しかし火災の際に臨時召集されるだけで、役割分担も何も定められていなかった。その後1641年に桶町の大火という大火災が起きたが奉書火消はあまり役に立たなかったのである。

これを機に当時の将軍・徳川家光が火消の指揮を執り、幕府が消防組織の編成に本腰を入れ始め、1643年に「大名火消」という組織が作られた。これは大名家16家を4つの組に分けて編成した組織で、火災時には火元に近い大名家が出動するというルールも定められた。

しかし武家のプライドが高い上に、火災の現場では幕府の要人に挨拶回り等をしたりと、肝心の消火活動に関しては頼り無かった。

その一方で、加賀藩では「加賀鳶」という私設消防団を作っていた。

加賀鳶は色男揃いの上に組織のユニフォームもあり、その柄は雲に雷模様という派手なものだった。またその仕事ぶりも優秀であった。

消防組織の強化

幕府は1658年「定火消」という消防組織を編成した。定火消は旗本4家から選抜され、江戸城付近の消火活動を行った。

その後、旗本10家と数を増やして定火消は強化され、定火消の旗本は家族と一緒に江戸城の近くで火消屋敷という屋敷に住んだ。敷地内には火の見櫓や火事を知らせる半鐘、太鼓が置かれていた。さらに、火消屋敷には消火を専門の仕事にする「臥煙」という人員も配備された。臥煙は1つの屋敷に100人程が常時待機していた。

また日頃からいつでも出動出来るように、法被1枚に褌1丁という姿で過ごしていた。そして寝る時は皆で1本の丸太を枕にして寝ており、これはいざ火事が起きた時、寝ずの番の者が丸太の端を叩いて一斉に全員を起こせるようにするためだった。

しかしこれらの消防組織の活動地域は、江戸城周辺や大名屋敷等の武家関連の土地限定であった。

町人の消防組織

町人達の居住区においては消防組織の編成は遅れていた。この問題の対処に動いたのが8代目将軍・吉宗だった、吉宗は町人達のための消防組織の設営を大岡越前こと大岡忠相に託した。

1718年に忠相は「町火消」という町人のための消防組織を作り、この組織は通称「いろは48組」と呼ばれ、48の組から成り立っていた。

画像 : いろは組とその纏(落合芳幾)

いろは組の構成員は、鳶職の町人中心(本業は鳶職のため兼業で火消しを担う人々)で組織されて、運営資金も町人から出された。さらに本所深川16組も本格的に組織された。

その後は約1万人もの人々が火消として働くようになった。町火消は町奉行の配下に置かれた。

構成員の仕組みは、全ての消火活動を取り仕切る「頭取」、それぞれの組のリーダー「組頭」、組のシンボルの纏を持つ「纏持ち」、梯子持ち担当の「梯子持ち」、平の火消し人「平人」といった構成であった。

町火消は江戸の人々の憧れの職業であった。特に組頭は喧嘩等の揉め事の仲裁も行う町の顔という存在であり女性からの人気もあった。また特権として湯屋や芝居小屋に無料で入れた。

町火消の活動内容は、まず火事が起きると刺子半纏を羽織い刺子頭巾を被って、手袋をして現場へ出動した。この衣装は分厚く、彼らはこれに水をたっぷりと含ませて消火活動をした。

また遠くからでもどの組か分かるように、組のロゴマークも入っていた。さらに火災現場で重要なものが纏(まとい)で、これは組ごとで違う形をしていた。

め組の纏(まとい)イメージ画像

纏は、遠くからでも現在どの組が消火しているのか分かるようにするためと、また火消達の志気を高めるためのものでもあった。纏は重く、纏持ちは組の中で1番早く現場に駆けつけ、屋根の上で纏を振りかざす必要があった。

そのため誰よりも体力と度胸が要るため、火消の中でも花形的存在であった。

火消しの活躍と文化

纏が陣取り、組員が揃うと消火活動が始まる。当時にも火消しの道具として「竜吐水」という消火器具は存在したが、消火能力は低く水を遠くまで飛ばせ無いため、実際には纏持ち等に水を吹き付けて火の粉から守ることが多かった。

そのため当時の消火方法は家屋を破壊し、それ以上の火事の延焼を防ぐというものであった。

これは「破壊消防」と呼ばれ、火消達は風下の家々を刺又や鳶口と呼ばれる道具で壊していった。家屋を壊すという消火活動のため、建物に詳しい鳶職の者が火消しに選ばれたのだ。また纏持ちはここまでの家を壊せば延焼を防げるという目印にもなった。

しかしこれをどの組が最初に立てるかで組同士の喧嘩が起こることも多かった。荒っぽい江戸っ子気質だが、火事の現場では勇敢に火事へ立ち向かう様子は喧嘩しているようであり、そして華やかな姿であった。その評判が高まり「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれた。

町人達は半鐘の音で火事に関する情報を得ていた、半鐘の鳴らし方も火元からの距離や消火の進行具合により違いがあった。

また当時の火消達の活躍や様子は浮世絵や講談、歌舞伎の題材にもされている。

め組の喧嘩 イメージ画像

加賀鳶の派手さは浮世絵に描かれ、「め組の喧嘩」という講談では元ネタになった事件がある。簡単に説明するとめ組の組頭・辰五郎九竜山という力士の間で喧嘩が起き、め組のメンバー vs 九竜山と同門の力士達の乱闘に発展したというものだ。

当時は力士も人気者であり舞台芸能の題材に取りあげられたのである。

その後、時代が進み消防は変化していったが現代の消防システムになったのは、1947年に消防団令が発令されてからである。

当時と現在では消火方法が異なるが、火災が起きれば勇敢に消火活動を行う存在は変わらない。

 

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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