江戸時代

人間の域を超えた知恵者~ 松平信綱の逸話 「将軍・家光、家綱を支えた知恵伊豆」

松平信綱とは

松平信綱の逸話

画像 : 松平信綱

松平信綱(まつだいらのぶつな)とは、江戸幕府3代将軍・家光と4代将軍・家綱を支え、幕藩体制を固めた最側近4人(他~酒井忠勝・阿部忠秋・保科正之)のうちの一人である。

特に松平信綱は「知恵伊豆(ちえいず)=知恵出づ(知恵が出る)」と呼ばれ、とても頭の切れた人物で、3代・家光からは「伊豆守(信綱の官職名)ほどの者がもう1人いたら安心なのだが」と、評されるほどであった。

4代・家綱の治世も補佐して幕藩体制の安定に尽力し、領国経営にも積極的で川越の地を「小江戸」と呼ばれる規模にまで発展させる基礎作りを行なった。

今回は「知恵伊豆」こと松平信綱の逸話について解説する。

養子にと直談判

松平信綱は、慶長元年(1596年)徳川家康の家臣で、現在の埼玉県伊那町の代官をしていた大河内久綱の長男として生まれた。
父の弟である松平正綱は大河内松平家の初代で、家康や2代将軍・秀忠の近習など重要な役職についていた。

関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)、当時「三十郎」と名乗っていた信綱少年は、叔父の正綱の元を訪ねた。

そして「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にして欲しい」と叔父に嘆願したという。

正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分なのに、本名を捨て我が名字を望むのは何故か?」と尋ねた。

すると三十郎(信綱)は「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。養子になれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。

不憫に思った正綱は「なるほど。望みのように養子にしよう。けれども一通り父母に申してから、字(あざな)を遣わそう」と言った。

そして両親に話して承諾を得た三十郎(信綱)は「今日よりは松平三十郎なり!」と言って喜んだという。

慶長9年(1604年)秀忠に嫡男・家光が誕生すると、信綱は家光付きの小姓に任じられ、願った通り御上の近習という職についた。

家光第一の頑固一徹だった

松平信綱の逸話

画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)wiki c

家光の小姓となった信綱は、「家光第一」「徳川第一」と思い定めて全力で励んだ。

小姓の仕事は早番・遅番・宿直を繰り返すといった形式で、宿直の日には弁当を持っての勤務となっていた。
しかし食事の途中でも、呼ばれれば食事をやめて駆け付けなければいけなかった。

信綱は家光に呼ばれれば、近くに他の偉い人物がいても一切構わずに駆け付けたという。
その用事が済んでから再び食事を摂るのだが、冬には途中で飯が凍ってしまうこともしばしばあった。

信綱は家光の命令であれば、相手が将軍・秀忠でも頑固な態度を見せたという。

こんな逸話がある。

ある時、秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り雛がかえった。
信綱は家光から「巣を取ってまいれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだが、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまった。

気付いた秀忠が刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問いただしたが、信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。

秀忠は家光の命令だと事情を察していたのだが、余りに強情な信綱に対して「年齢に似ず不敵な奴だ!」と大きな袋に入れ、その口を封じて柱に縛り付けた。秀忠の正室・お江も事情を察し、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えていたという。

昼になって秀忠が再び「誰の命令か言え!」と問い詰めたが、信綱は同じように答えるだけであった。

ついに秀忠は折れて信綱を開放した。そしてお江に「信綱が今のままに成長したら、竹千代(家光)の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという。

人間の域を超えた知恵者

松平信綱の逸話

画像 : 酒井忠勝 public domain

同じ老中で、信綱よりも年長の酒井忠勝は、同僚の阿部忠秋に「信綱と知恵比べをしてはいけない。あれは人間の域を超えている」と語ったという。

しかし、信綱は周囲からは少々煙たがられていたようである。

信綱は熱心に仕事に打ち込み、茶の湯・能・歌会などの娯楽にまったく関心がなく酒を嗜むこともなかったので、周囲からは堅物だと思われていた。

土井利勝に叱られる

知恵者というのは、得てして知恵が回り過ぎて失敗することもある。

ある時、家光が増上寺に参拝すると櫓の白壁が破損していたので、側にいた信綱に修繕を命じた。

画像 : 土井利勝 public domain

しかし、その白壁の修繕は中々難しく、信綱は上司である土井利勝に「破損している部分を修繕したように見せかけましょう」と相談した。

しかし利勝に「そんな姑息なごまかしをしてもいずれは分かってしまうのだから、無理なものは無理だと率直に言わなくてはならない」と叱責されてしまったという。

殉死について

慶安4年(1651年)家光が亡くなったが、信綱は殉死を選ばなかった。

そして殉死しなかったことで、江戸の町民や他の武士たちに

「伊豆まめは、豆腐にしてはよけれども、役に立たぬは切らずなりけり」
「仕置きだて、せずとも御代は、まつ平、ここに伊豆とも、死出の供せよ」

などと、皮肉られていた。

信綱が殉死しなかったのは、家光が死の床で信綱に直々に4代・家綱の補佐を頼んだためであった。
また、信綱自身も殉死というしきたりに疑問を持っていた。
非難の声に対して信綱は「先代の君主に仕えた者が皆殉死してしまったら、次代の君主を誰が支えるのだ」と、反論したという。

信綱の政治実績は家光の治世よりも、むしろ家綱の治世の方が多いという意見もあるほどで、信綱は見事に家光の期待に応えたとも言える。

おわりに

趣味がなく真面目だった松平信綱は、暇な時に心を許した者を集めて政治の話の問答をしたという。

信綱は政治(人民)の取り締まりについて「重箱を擂粉木(すりこぎ)で洗うようなのがよい。擂粉木では隅々まで洗うことはできず、隅々まで取り締まってしまうと、良い結果は生まれない」と語ったという。

悪人を厳しく取り締まりすぎると悪人の住む場所がなくなってしまい、最終的には反乱を起こしてしまうことになる。

信綱は「世の中は善人ばかりではない」という機微を良く理解していたのだろう。

参考文献:「知恵伊豆と呼ばれた男」ほか

 

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