幕府公認の吉原遊郭は、格式高く洗練された美女が多いことで有名で、最盛期には6000人を超える遊女がいたと言います。
そんな吉原でトップに君臨する花魁は、江戸時代の人々にとってアイドルのような存在でした。
吉原の高級遊女・花魁と遊ぶには、いったいいくら必要だったのでしょうか?
また、時代劇によく出てくる夜鷹は、いくらだったのでしょう?
花魁から夜鷹まで、春を売った女性たちの値段について調べてみました。
花魁とは
「花魁(おいらん)」は、高級遊女の総称です。宝暦(1751-1764年)の終わり頃に「太夫」が消滅し、高級遊女を花魁と言うようになりました。
売れっ子遊女の条件は、「一に顔、二に床、三に手」と言われていました。「顔」は美貌、「床」はテクニックのことで、吉原の遊女ならではの秘技や秘伝があったそうです。
「手」とは、甘えたり、じらしたり、あの手この手で客を巧みにだますこと。遊女には美しさだけでなく、床上手さや手練手管も必要だったのです。
吉原の遊女の階級は上から順に、呼出昼三(よびだしちゅうさん)、昼三、附廻し(つけまわし)。さらに座敷持(ざしきもち)、部屋持(へやもち)と続きます。通常、呼出と昼三を花魁と言いますが、部屋持までとする説もあります。
最高級遊女の呼出昼三は、格子の奥にならんで客を引くことはせず、茶屋から客の呼び出し(指名)が入ると禿(かむろ)や新造(しんぞう)をしたがえて茶屋へ出向いて行きました。
昼三以上の花魁は、豪華な個室と接客用の座敷を与えられました。
座敷持は、寝起きする個室と接客用の座敷を与えられましたが、部屋持は個室だけを持ち、そこで客を迎えます。
花魁の揚代は一両一分
遊女と遊ぶ代金を「揚代(あげだい)」と言い、遊女の階級が高くなればなるほど揚代も高くなります。
文政9年の吉原のガイドブック『吉原細見』によると、最高位「呼出昼三」の揚代は一両一分。現代価格で15万円でした。
呼出の一つ下「昼三」は、”昼だけでも三分かかる”という意味で揚代は三分、現代価格にすると9万円です。さらに格下の「附廻」の揚代は二分(6万円)、「座敷持」は金一分~二分(3~6万円)、「部屋持」はそれぞれ金一分(3万円)でした。
※文化・文政期(1804~1830)の物価を基本として、銭一文を現在換算で約30円、金一両を12万円で試算。一両=四分、一分=四朱。
ただし、これはあくまで遊女の揚代のみ。この他に芸者代、酒宴代などの遊興費やチップであるご祝儀などが必要で、気前よくふるまっていると一晩で100万円くらいの散財は覚悟しなければなりませんでした。
裏店の長屋で親子五人が1ヵ月一両二分で暮らしていたことを考えると、庶民にとって花魁がいかに高嶺の花だったのかが分かります。
なお、吉原にはリーズナブルな下級遊女「新造(しんぞう)」もいて、揚代は金二朱(1万5000円)でした。
新造は自分の部屋をもたず、20畳ほどの部屋で共同生活をしました。自室を持たないので、接客には「割床」と呼ばれる大部屋を使います。割床は、お隣との仕切りが屏風一枚だったので、物音や声は筒抜け。
間違って別の寝床に入ってしまうなど、様々なトラブルが起きていたようです。
金を払わない客には糞尿まみれの私刑
支払いの段になって金がないという客には、「桶伏せ」という吉原独特の私刑が行われました。
「桶伏せ」とは、窓をあけた大きな桶を客の上から伏せて閉じこめ、道端でさらし者にするという刑です。食事は与えられたものの便所にも行かせてもらえず、家族や友人など、誰かが金を払いに来るまで出してもらえませんでした。
ただし「桶伏せ」が行われたのはごく初期の頃であり、その後は行灯部屋という薄暗い部屋に軟禁したり、「付馬」や「始末屋」といった取り立て屋が、客の家までついて行って金を受け取ったりするようになりました。
吉原の最下層の遊女「切見世女郎」
吉原の裏通りには「切見世(きりみせ)」と呼ばれる最下級の遊女屋がありました。
切見世は長屋で、遊女は二畳ほどの部屋で生活し、そこで客も取りました。
切見世の遊女は「切見世女郎」と呼ばれ、揚代は時間制で10分につき百文(3000円)でした。
表通りの遊女は28歳で定年を迎えましたが、切見世の遊女に定年はなく年増も多かったそうです。
庶民に人気の岡場所、飯盛女
お金のない庶民や下級武士が、気軽に遊べるのが岡場所です。
幕府非公認の岡場所は、主に宿場町、寺社町、水路沿いにあり、相場は六百文(1万8000円)から百文(3000円)でした。
また、宿場町には「飯盛女(めしもりおんな)」がいました。
飯盛女は旅籠で客の食事の給仕をし、さらに床の相手もする遊女で、揚代は六百文(1万8000円)から四百文(1万2000円)でした。
忙しい時には客をかけ持ちする「廻し」を行いましたが、幕府の小役人は威張っていて「廻し」を許さないので、飯盛女からも旅籠からも嫌われていたようです。
最下級・夜鷹の驚きの値段
岡場所や飯盛女として通用しなくなり、路上で春を売るようになったのが、最下級の街娼「夜鷹(よたか)」です。
夜鷹の揚代は、そば一杯の値段と同じと言われ、十六文(480円)から二十四文(720円)でした。
江戸っ子の中には、気前よく五十文や百文を渡す人もいたそうです。
花魁よりも高い揚代を稼いでいたのは?
花魁よりも高級料金を取っていたのは、陰間とよばれる男娼でした。
陰間は10代の美少年による売色で、彼らは「陰間茶屋」に身を置き、僧侶や御殿女中、商家の後家さんなどを相手にしました。揚代は2時間で金一分(3万円)、一日で三両(36万円)、外に連れ出す場合は別途二両(24万円)が加算されます。
陰間は美少年が好まれたため、稼げる期間は短くせいぜい16、7歳まで。そのため花魁よりも高額な揚代になったと言われています。
参考文献
安藤優一郎『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』
大石学『江戸のお勘定』
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