湯川秀樹も認めた天才・弘法大師空海
日本人初のノーベル賞物理学賞で知られる湯川秀樹氏は言う。
「長い歴史の中で、空海はもっとも万能的な天才であった」
と。いったい空海はどれほどの天才だったのだろうか。
空海の青年期
弘法大師空海は奈良時代後期、宝亀5年(774年)に生まれた。父は佐伯善通、母は玉依御前(玉依姫)。讃岐国の出身であったとされる。
空海の著書「三教指帰」の序文には、15歳で母の兄弟であった人物につき、学問を始めたことが書かれている。
18歳で都の大学に遊学し、首に縄を掛け、錐を股に刺すなど、睡魔を防いで、勉学した。
この時代の勉学の内容は漢籍。この頃に培われた漢文の素養は、天才空海の重要な下地となるものであった。
そんな空海はある時、一人の沙門(僧)から「虚空蔵聞持法(こくうぞうもんじほう)」という密教の修法を伝えられる。
「虚空蔵菩薩の真言(仏界の言語)」を百万回唱えることで「全ての教法を暗記できるほどの記憶力」が得られる。
この修法を実践する空海の前には、虚空蔵菩薩が、光り輝く明星となって現れたという。
また「御遺告」には、心の中で虚空蔵菩薩を観想したところ、明星が口の中に入ったとも書かれている。
少なくともこの頃に空海が、強烈な宗教的・神秘的な体験を得たのは間違いないだろう。
カリスマ的仏教者としての弘法大師空海の誕生の瞬間であった。
唐への留学
その後、「御遺告」によれば空海は夢でお告げを受け、「大毘盧遮那経」という経の存在を知り、その経を空海は大和高市の久米寺の塔のもとで発見する。
だが、その内容は当時の空海にとって理解できない部分を多く含むものであった。
「この経を学ぶためには、唐へと渡らなければ」という想いに駆られた空海は延暦23年(804年)の遣唐使の一行に加わることとなった。
だが、唐では空海をふたつの試練が待ち受けていた。
まずは空海が天皇の国書を持っていなかったために、入国が認められないという事態が発生。
ここでかつて培った漢文の素養が力を発揮する。
空海は「大使福洲の観察使に与ふるが為の書」として知られる嘆願書を作成。これにより、無事に入国が認められた。
次に、人数制限により長安への入京が認められないという事態が勃発。
だがここでも空海は「福洲の観察使に与へて入京する啓」を執筆し提出の後、長安の都に入ることが叶った。
この二通の嘆願書はともに「性霊集」の巻第五に収録され、名文の誉れが高い。
唐に入る前に既に、福洲の官吏たちを説得できるほどの漢文の力を身につけていたとは、まさに天才と呼ぶに相応しい。
当時の長安は世界文化の中心地といってもよい場所であり、交易市場として国際色豊かな土地であった。仏教だけでなく、さまざまな分野の知識を吸収できる環境にあったことは想像に難くない。
この長安での暮らしは天才空海の持つコスモポリタン的な幅広さを醸成するには充分な環境であっただろう。
また当時の長安は、宗教的にも豊かな環境にあり、仏教以外にも、ゾロアスター教、マニ教、キリスト教(ネストル教)なども存在していた。
この長安の地で、空海はインドから来ていた僧である般若三蔵と牟尼室利三蔵から、サンスクリット語(梵語)を学ぶ。
「請来目録」
によれば、当時、般若三蔵は70歳を越えた老齢であり、日本に行って布教活動をしたいが、それも叶わないので自分の訳した「華厳経」「六波羅蜜経」と三つのサンスクリット語の原典を空海に与えたということだ。
サンスクリット語(梵語)の習得は空海の密教理解の大きな武器となったことだろう。
そしてこの長安の地で、いよいよ空海は青龍寺の東塔院で、自らの師となる人物、恵果和尚に対面する。
恵果は、唐に密教を定着させた不空三蔵の系譜につらなる人物であり、禅、数学や暦法など多方面にも通じていた。
「顕教」と呼ばれる通常の仏教に対し、「密教」は、秘密の教義と儀礼を、弟子が師から受け継ぎ、さらにこれを後につづく弟子に伝える「師資相承」によって伝承が行われる。
空海はこの恵果から、正式に密教の秘法を伝授された後、日本に帰国した。大同元年(806年)10月22日のことであった。
即身成仏の思想
帰国した空海は、日本に初めて本格的な密教を伝え、真言宗の開祖となる。
空海の思想の中で最も着目すべき考え方は「即身成仏」という教えだろう。
通常の仏教では、修行者は輪廻転生を繰り返しながら、徐々に段階を踏んで悟りを得て、仏の位へと近づいていくという考え方をとる。
そこに至るまでには膨大な時間を要するのだが、密教ではこれに対して、父母からもらった現在のその身のまま、即座に仏と成ることができるとする「即身成仏」という思想をもつ。
その理論を解き明かした空海の著作が「即身成仏儀」であり、そのエッセンスが集約されたのが、この二頌八句の詩である。
金岡秀友氏による現代語訳。
1、宇宙の六つの力(六大)は互いに入りまじって、しかも統一されている。
2、宇宙と自己を象徴的に表現すれば、その四つの方法(四種曼荼)のいずれにとっても、相互に深く連携しあっている。
3、人間の動作のいずれをとっても(三密)、それを一心に仏の動作と通じさせようとすれば、成仏という効果はたちどころにあらわれる。
4、これらが(六大・四曼・三密)が網の目のように入りまじわり、重なりあっていること、帝釈天の網のようだというのを、この身このままでの成仏、とたとえるのである。
5、人はいずれもあるがままに仏の智慧を身にそなえ、
6、心のはたらき、心自体いずれも塵の数よりも多い。
7、心のはたらきの結果である五智は、それぞれに無限のはたらきをもっている。
8、これら五智は、いずれもその根元の智慧である大円鏡智の力によっているのであるから、真実をさとる智慧といわれるのである。
この空海の即身成仏という思想にまつわる伝説がある。
「今昔物語集」第十一巻・第九 「弘法大師宋に渡りて真言の教へを伝へて帰り来たる語」に記された話である。
諸宗ノ諸学等有テ、即身成仏ノ義ヲ疑テ論ヲ致ス時ニ、大師彼ノ疑ヲ断ムガ為ニ、清涼殿ニシテ、南ニ向テ大日ノ定印ヲ結テ観念スルニ、顔色金ノ属ニシテ、身ヨリ黄金ノ光ヲ放ツ。万人是ヲ見テ、首ヲ低テ礼拝ス。
(諸宗の多くの学者たちが、空海の即身成仏の義に対して疑いをもって論難した時に、弘法大師空海はその疑いを絶とうとして清涼殿で、南に向かって大日の定印を結んで観念すると、顔色は黄金のようになり、身体から黄金の光を放った。皆、これを見て、頭をたれて礼拝した。)
空海は、その身がまさに仏となっている様を、人々に実際に示したというのである。このエピソードは「平家物語」百二十句本の第五十六句などにも引用されている。
(弘法は)口に密言を誦し、手に密印をむすび、心に観念をこらし、身に儀軌をそなふ。生身の肉身、たちまちに現じて、紫磨黄金のはだへとなり給ふ。かうべに五仏の宝冠を現じて、光明蒼天を照らし、日輪の光をうばひ、朝廷は頗梨にかがやいて、浄土の荘厳をあらはす。そのとき皇帝、御座を去つて礼をなし給ふ。臣下身をつづめておどろき、地に伏す。百官かうべをかたぶけ、諸衆合掌す。
なお、平家琵琶(平曲)の伝承においてはこの「宗論」は、「剣之巻」「鏡之巻」と並んで大秘事とされる、いわゆる秘曲であった。
語学の天才空海
以上、ここまでは宗教者としての弘法大師空海の天才ぶりを見てきたが、空海の天才ぶりは仏教の世界に留まるものではない。
色(いろ)は匂(にほ)へど 散(ち)りぬるを
我世誰(わがよたれ)ぞ常(つね)ならむ
有為(うゐ)の奥山(おくやま)
今日(けふ)越(こ)えて
浅(あさ)き夢見(ゆめみ)じ 酔(ゑ)ひもせず
この「いろは歌」は涅槃経の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意を訳したものであり、古来、空海の作だといわれてきた。
残念ながら、この説については現在否定されており「いろは歌」は、音の種類や形式から、平安中期以後の作であるとされている。
だが、空海が語学の分野で卓越していたことは事実であるとしてよい。
漢詩文の規則について空海が書いた文法書「文鏡秘府論」の序文にはこう記されている。
(幼い頃からおじについて漢文を学んで、長じてからは中国に入り、さらに多くの文章論を聴いた。)
サンスクリット語、漢文などの語学に、広く通じていた天才空海が、手習いの基本であった「いろは歌」の作者として想定されるようになったのも、うなずけることだ。
美術プロデューサーとしての空海
空海は唐から日本に帰ってくる際に、多くの美術品や儀礼に使う道具類などを日本に持ち込んだ。
なかでも重要なものが「曼荼羅」。諸々の菩薩や仏を配置した図で、仏教的世界観を表現したものだ。
空海はこの曼荼羅を日本に持ち込んだだけでなく、自ら制作するころができたという記述が「性霊集」巻七にある。
導師である恵果に出会って、胎蔵界と金剛界の曼荼羅を書くことができた。
この時のプロジェクトは、空海が唐から持ってきた曼荼羅が18年を経て色も落ち、傷んできたために、その修繕をするためものだった。
5ヶ月をかけての一大修復プロジェクトだったわけだが、その修復された図像の数は26点にも及んだ。
空海自らが筆をふるってすべてを描いたのか、監督的立場で画工に仕事をさせたのかの詳細は不明だが、少なくとも空海が類稀な美術的才能をも持ち合わせていたことは間違いない。
書家としての空海
「続日本後紀」にはこのように記されている。
書の技術にあっては、特に素晴らしいものを持っていた。張芝(草書に長けて草聖と称された)と並んで、草聖と称せられた。
そう、空海は嵯峨天皇、橘逸勢と並んで「三筆」と言われた書の達人だった。
空海の書にまつわることわざとして知られる「弘法も筆の誤り」のもととなった話が「今昔物語集」第十一巻・第九 「弘法大師宋に渡りて真言の教へを伝へて帰り来たる語」にある。
応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ。驚テ、筆ヲ抛テ点ヲ付ツ。
(応天門の額を打ち付けて後にこれを見ると、「応」の字の最初の点がいつの間にか消えてしまっていた。空海は、はっと気づいて下から筆を投げ放って、その点を付けた。)
「その道に長じた人であっても失敗はする」ということわざの元ネタである。
土木技術家としての空海
日本各地には弘法大師空海によって発見されたという温泉が大量に存在する。
長野の鹿塩温泉、新潟の関温泉、熊本の杖立温泉、群馬の法師温泉、甲府の湯村温泉、静岡の修善寺温泉…等々、枚挙にいとまがない。
これらは伝説の範疇に入るものである可能性が高いが、実際に弘法大師空海が、土木技術に通じており、讃岐の満濃池の修復を監督したという記事が「日本紀略」に記されている。
これを見ると、
「うまく捗らなかった工事であったが、京にいた空海が故郷である讃岐に戻ると、人々が空海を父母のように慕って協力し、無事に完了に至った」
という旨が書かれている。
かつての行基のように、仏教者が土木工事に携わった例は多い。唐に留学した空海が、大陸で学んだ優れた技術を用いて、難航していた工事を見事に完成に至らせたということも想像に難くない。
卓越した土木技術の持ち主として池の修復を行った弘法大師空海の姿が、いつしか変容していき、各地で温泉を掘りまくる人としての空海へとつながっていったのかもしれない。
なお、日本各地には行基によって掘られたとする温泉も多い。仏教者と温泉のつながり考察する上でこちらも興味深い。
エコ思想の元祖としての空海
空海は「性霊集」巻第八において、こう述べている。
「そもそもこの身は虚空から生まれたものではない。大地から変化したものでもない。必ず四恩の徳に助けられて、この身を保っているのだ。いわゆる四恩というのは、父母、国王、人々、仏教である。」
そしてその上で、
「地水火風空識の六大からなる存在である人間も、仏の五智による宇宙に包まれている。空を飛ぶ鳥類も、地を這う昆虫も、水を泳ぐ魚も、林に生きる獣も、すべてこれは自分にとっての四恩である。皆、同じく悟りの世界に入ろう。」
と述べる。
自然と一体になって生きること。世界と一体になって生きること。
近代西欧において、人間は科学の名のもとに、自然を制圧した。世界に負荷を与えて続けて、その結果、自然は疲弊し、地球環境は悪化した。
現代人はその奢りを捨て、今こそ仏教の智を見直すべきなのではないか。
空海がここに記した言葉は、今後の我々人類の自然との関わり方のあるべき姿を示唆するものでもある。
最後に
弘法大師空海は承和2年(835年)に3月21日に亡くなったとされる。空海が亡くなったことについては「入定」と表現される。
入定とはもともと仏教語では「瞑想に入る」というような意味であった。
高野山には空海の建立した真言宗総本山金剛峯寺があるのだが、たとえば「高野山は弘法大師の入定の地である」と言えば、「高野山は弘法大師が瞑想している地だ」という意味にすぎなかったのだ。
ところが、時代が下り「弘法大師は亡くなったのではなく、生きたまま瞑想を続けている」という思想が生まれるにつれて、「入定」という語に特別の文脈が生まれて来る。
すなわち、「高野山は弘法大師の入定の地である」という言葉は「高野山は、弘法大師が亡くならずに、今でも生きたまま瞑想を続けている地である」という文脈になったのだ。
それが「弥勒下生思想」と結びついていく。
「弥勒下生思想」というのは、現在、兜率天で修行中の弥勒菩薩が、釈迦の死後56億7千万年の後に、この世界に未来仏としてやってくる思想であるのだが、「空海は弥勒菩薩の来迎を待ちながら高野山で瞑想中だ」という信仰が誕生するのだ。
栄華物語巻第十五には、こんな記事がある。
「高野に参らせたまひては、大師の御入定のさまを覗き見たてまつらせたまへば、御ぐし青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、あざやかに見えたり。御色のあはひなどぞ、めづらかなるや。ただねぶりたまへると見ゆ。あはれに弥勒の出世、龍華三会の朝にこそはおどろかせたまはめと見えさせたまふ。」
(藤原道長様が、高野山に参上なさって、弘法大師の入定の様子を覗き見申し上げなさると、大師の髪は青々として、お召しになっている衣も、少しも塵ばんだりすすけておらず、あざやかに見えた。色の配合なども素晴らしいことだよ、ただ眠りなさっているようにに見える。しみじみと、弥勒の出世、龍華三会の朝にお目覚めになるのだろうと見えなさる。)
藤原道長が、実際に瞑想中の空海に会ったという記事だ。
また「平家物語」巻三「大塔建立」では、
「清盛高野へのぼり、大塔拝み、奥院へ参られたりければ、いづくより来るともなき老僧の、眉には霜をたれ、額に浪をたたみ、鹿杖のふたまたなるにすがッて出で来給へり。」
(平清盛が高野山に登って、大塔を拝み、奥の院に参られたところ、どこからともなくやってきた老僧で、眉が白くなっていて、額にしわを刻んだ者が、ふたまたの鹿杖にすがって出て来なさった。)
と書かれている。
清盛はこの老僧に厳島神社を修理するように言われるが、忽然とその老僧は姿を消す。
「ただ人にあらず、大師にてましましけり。」(ただ者ではない、弘法大師その人であったのだ)
と清盛は悟り、厳島神社を修理して以来、平家は厳島を信仰するようになったとされる。
そして、今現在も、高野山では弘法大師の廟の前では、弥勒菩薩の真言が唱えられ、朝と昼の2回、空海のために食事が提供されている。
「ありがたや高野の山の岩かげに大師はいまだおはしますなる」
天台座主・慈鎮和尚の歌である。
日本史上まれにみる天才空海は今も高野山に生き続けている。(完)
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