和泉式部とは
和泉式部(いずみしきぶ・978年頃~?)は、平安時代の中期の歌人であり、優れた女性歌人を示す、女房三十六歌仙のひとりである。
恋愛遍歴が多く、その評判は朝廷の中でも噂になっており、同僚の女房(宮廷に仕える女性)・紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されたり、時の権力者・藤原道長には「浮かれ女」とまで称されるなど、数々の浮名を流していたようだ。
今回は、そんな“激しく恋する女”、和泉式部と、彼女の執筆した『和泉式部日記』について解説する。
2人の親王との恋
和泉式部の情熱的な生涯を題材にし、多くの物語が誕生している。
滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
“滝の音が絶えてからずいぶん長い時間がたちましたが、その評判は、今もなお聞こえていることでしょう”
「百人一首」より
和泉式部は、越前守・大江雅致と、越中守・平保衡の娘の間に生まれた。
幼名は、御許丸(おもとまる)と言い、太皇太后宮(天皇の母で、かつて皇后であった人の住居)で、内親王・昌子内宮に勤める、女童だったそうだ。
やがて、和泉守・橘道貞の妻となると、夫とともに和泉国に下った。
和泉国とは、現在の大阪府南西部に位置する、和泉市のことである。
彼女の女房名である”和泉式部”は、夫の任国と、父の官名を合わせた言葉で、当時の女性が仕事をするときに、本名を用いることはなかったのである。
その後、夫・道貞とは離婚するも、彼とのあいだに娘・小式部内侍をもうける。
京都に帰ってきた和泉式部は、夫と別居して暮らしていたが、その時期に、為尊親王と恋に落ちる。
為尊親王は、当時の天皇・冷泉帝の三男で、和泉式部とはかなりの身分差があった。
何しろ、ただ親王というだけではなく、為尊親王の母は、当時、朝廷でかなりの権力をふるっていた、藤原道長の姉・超子であったからだ。
そのため、道長は、この為尊親王に、次期天皇としての期待を寄せていたのだった。
しかし、為尊親王は疫病にかかり、まもなく死去。
彼が亡くなると、和泉式部は、その同母弟である敦道親王に誘惑される。
彼らはたちまち、恋愛関係になるが、敦道親王は、魅力的な和泉式部が、他の男性と浮気をしないか心配になり、自分の邸へと引き取ることになった。
だが、このことで深く傷ついた敦道親王の正室(正妻)が出家してしまい、この一連の事件は、朝廷内で大きなゴシップとなった。
当時、敦道親王は27歳、和泉式部は30歳前後であったと言われている。
大恋愛を極めた2人であったが、その後まもなく、敦道親王もこの世を去ってしまう。
その後、和泉式部は、一条天皇の中宮(妃)、藤原彰子の下へ、女房として出仕することになる。
この藤原彰子のもとには、紫式部や赤染衛門など、当代きっての才女たちが多く在籍していたそうだ。
和泉式部は、この出仕生活の中で、多くの歌を詠んだ。
特に得意だったのは、恋の嘆きや、深く傷ついた心を表現した、恋歌・哀傷歌で、その情熱的な恋の歌は、後に明治を代表する歌人・与謝野晶子にも、高く評価されている。
娘・小式部内侍
最初の夫・道貞との間に生まれた娘、小式部内侍(こしきぶのないし)は、和泉式部と同じように、中宮・彰子のもとへ女房として、出仕した。
彼女も、母に負けず劣らずの歌の才を持ち、また母譲りの美貌と機智、激しく情熱的な性格を持ち合わせていたという。
そのため、多くの恋の浮名を流し、華やかな恋愛遍歴を持っていた。
小式部内侍は、藤原教通との間に息子を、藤原範永との間に娘を設けており、恋の相手は、貴族の中でも特に位の高い、藤原家の男子であったようだ。
そして、藤原公成という男性とも恋に落ち、子供を出産するが、難産のため、わずか20代の若さで亡くなってしまう。
母である和泉式部は、たったひとりの娘を亡くしてしまうのである。
この時、和泉式部は嘆き悲しみ、一首の歌を詠んだ。
それが、
とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさりけり 子はまさるらむ
“子供たちを私を置いて死んでしまって、娘はいったいどちらを哀れと思っているだろうか。きっと、子供たちの方をいとおしんでいるだろう。今の私のように。”
という歌である。
この歌は、哀傷歌の傑作として有名である。
たった1人の娘を失った和泉式部の悲しみは、いかばかりであろうか。
『和泉式部日記』の執筆
(ロマンス性の高い『和泉式部日記』は、多く漫画化もされている)
和泉式部は、敦道親王の死後まもなく、『和泉式部日記』を執筆した。
この日記は、日記としては珍しく、“3人称”で語られているため、和泉式部本人の作品ではなく、第三者によって執筆されたのではないか、ともいわれているが、後年の研究と、日記の内容によって、和泉式部自身の作とされている。
『和泉式部日記』は、敦道親王との恋愛の経過を、歌を交えて物語風に記されており、作中に出てくる多くの歌には、数々の名歌が記されている(作中には147首もの歌がある)。
物語調の形式のため、別名では『和泉式部物語』ともいわれているようだ。
そんな『和泉式部日記』の、「恋」という段で詠われているのが、
いたづらに 身をぞ捨てつる 人を思ふ 心や深き 谷となるらん
“むなしくも、恋に我が身を堕としてしまいました。人を想う心は、深い谷となっているのでしょうか”
という一首である。
当時、和泉式部のゴシップ問題は、朝廷の中でも大騒ぎを引き起こしたことであろう。
その後、数年間は田舎に引っ込んでいた和泉式部であるが、その後、当代きっての華やかな中宮・彰子のもとへ奉公へあがり、数々の名歌を詠んでいる。
いっときは人に疎まれても、才能に溢れていれば、かならず多くの人に、必要とされる。
和泉式部の生きざまは、我々にそんなことを教えてくれている。
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