天は人の上にも下にも人を作りませんでしたが、人は人の上にも下にも人を作るのが好きなようで、その身分によって一喜一憂させられてきたのが人間の業というもの。
有史以来、身分の違いが様々なドラマを生み出し、時に人々を感動させることもあるものの、見ている方はともかく、その渦中でのたうち回る当事者とすればたまったものではなく、その多くが平穏な幸せを望んだことでしょう。
そこで今回は平安時代、身分違いの恋に身を焦がした藤原長子(ふじわらの ちょうし)のエピソードを紹介したいと思います。
名君・堀河天皇に出仕する
藤原長子は平安時代の承暦3年(1079年)ごろ、藤原顕綱(あきつな。讃岐入道)の娘として誕生しました。
母親は不明、腹違いの姉兄に藤原兼子(けんし)、藤原家通(いえみち)、藤原道経(みちつね)、また別の母親に藤原有佐(ありすけ)がおり、彼らと年齢が大きく離れていることから、父が晩年に身分の低い(少なくとも記録が残らない程度の)女性ともうけた娘と推測されます。
父親としてはさぞや可愛く思ったことでしょうが、あくまで身分が低い娘ですから、体面上は相応に扱わざるを得ません。
「とは言え、可愛い娘であるからして、恥ずかしくないところへ嫁に出せるよう、ハクをつけてやりたいものだ……」
そこで康和2年(1100年)、22歳になった長子は姉・兼子がの伝手で第73代・堀河天皇の下へ出仕することになりました。
一族の後押しもあって康和3年(1101年)には典侍(ないしのすけ。内侍司、後宮の次官)に昇進、父親が讃岐の国司(讃岐守)であったことから、讃岐典侍(さぬきのすけ)と呼ばれるようになります。
さて、そんな長子がお仕えした堀河天皇は、彼女と同い年の承暦3年(1179年)生まれ。やんごとなきお生まれにふさわしく、爽やかに洗練された立ち居振る舞いと誠実なお人柄で、みんなから敬愛されていたそうです。
生まれつき病弱ではあったものの若者らしく情熱に満ちあふれ、人々の暮らしをよくしようと意欲的に政務に取り組み、
「天が下(あめがした)治まりて、民安く世のどかなり」
※『発心集(ほっしんしゅう。鎌倉時代の仏教説話集)』より
と称えられるほどの実績を上げたと言いますから、女性たちが時めかないはずがありません。
「あぁ、陛下……でも、わたくしのような者を置いていただこうなどと、おこがましい事は願いませぬ。少しでもお側に仕えさせて頂けるだけで、身に余る幸せと言うもの……」
日に日に募る想いを胸に秘め(たぶん隠しきれていない)ながら奉仕していた長子でしたが、やがて堀河天皇は父・白河法皇(第72代)と対立するようになります。
堀河天皇の失意、そして崩御
白河法皇としては、天皇陛下はあくまでも「お飾り」として政治の実権を自分が握る院政(いんせい)を目論んでいたのに、父の傀儡(かいらい。操り人形)であることをよしとしない堀河天皇がそれを拒否したのです。
しかし、必死の抵抗もむなしく老獪な父の前に政治の実権を譲らざるを得ず、失意の堀河天皇は芸学の世界に慰みを求め、管弦や和歌に才能を発揮するようになったのでした。
そんな堀河天皇に寄り添いながら日々を過ごしていた長子でしたが、元から病弱だった堀河天皇は病の床に伏してしまい、嘉承2年(1107年)7月、闘病の末に崩御されてしまいます。
「あぁ、陛下……!」
長子は堀河天皇の闘病生活や密かな恋慕の情を綴っており、後世『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』と呼ばれるそれは、従来は聖域(一種の禁忌)として人々の耳目に触れることのなかった「天皇陛下の死」について生々しく描写した貴重な史料となりました。
あさゆふ(朝夕)に なけき(嘆き)をすま(須磨)に やくしほ(焼く塩)の
からく(辛く)けふり(煙)に おくれ(後れ)にしかな
※堀河院讃岐典侍。藤原定家『新勅撰和歌集(鎌倉時代)』より【意訳】
あなたに先立たれ、取り残された私は、須磨の浦(現:兵庫県神戸市須磨区)で塩焼の煙が目にしみたように涙が止まらず、朝夕嘆き暮らしています。
須磨とは古来、寂しさや悲恋を詠む和歌のテーマとして定番の場所であり、海水を煮詰めて塩を採取する塩焼きの名所として知られていました。
『讃岐典侍日記』や、その中に詠まれた作品を見る限り、あまり文才には恵まれていなかったようですが、長子の切なる思いが詠まれたこの歌は人々の心を打ち、ただ一首『新勅撰和歌集』に入選したのでした。
さて、愛する堀河天皇の崩御を悼み、その喪に服するために内裏を去った長子でしたが、明けて天仁元年(1108年)、白河法皇からたっての願いで堀河天皇の皇子で皇位を継承した鳥羽天皇(第74代)の典侍として復帰します。
「せっかくのお召しにございますれば、ありがたく参りまするが……」
鳥羽天皇は当時6歳。言うまでもなく祖父・白河法皇の傀儡です。長子としては、愛する堀河天皇の忘れ形見なれば心からお仕えしたものの、かつて堀河天皇を失意に追いやった白河法皇とそりが合わなかったか、程なくして典侍を辞して、再び内裏を去ったのでした。
堀河天皇の霊が乗り移る……?
普通ならここで「長子は出家して尼となり、堀河天皇の菩提を弔いながら余生を過ごした」とでもなるのでしょうが、話はここで終わりませんでした。
堀河天皇の崩御から10年以上の歳月が過ぎた元永元年(1118年)の秋ごろ、長子は再び内裏に舞い戻って来たのです。
「……朕(ちん。天皇陛下の一人称)は先に崩ぜし堀河院なり。此度は吾子(あご。我が子)なる今上を守護せんと来たるなり……」
気でも狂ったかと周囲の者が問いただすと、何でも「亡き堀河天皇の霊が乗り移った」のだとか。
「何だと、この気違い女め。畏れ多くも陛下の御霊(おみたま)を騙るとは不敬千万……」
「いや、生前あれだけ慕っていたから、陛下が御霊の依り代に彼女を選ばれたのやも……」
十年も経てば内裏の顔ぶれも随分と変わっていましたが、昔のことを覚えている者の口添えによって、長子は内裏に居座ることが黙認されます。
しかし、もはや昔を知る者も少なく、まして「堀河天皇の霊が乗り移った」などと自称している薄く身悪い老女(※)に親しもうとする者もおらず、長子は内裏で孤立しながら、ブツブツと独り言を垂れ流す日々を送るばかり。
(※)平安時代の平均寿命は30歳くらいと言われており、かの『源氏物語』でも、光源氏が40歳になった時に長寿祝いの宴を開いています。
そんな長子に転機が訪れたのは、鳥羽天皇の中宮(皇后陛下)である待賢門院璋子(たいけんもんいん しょうし)の懐妊予言でした。
「もしかしたら、本当に亡き堀河院の御霊が乗り移っていらっしゃるのかも……」
長子は皇子誕生を願って昼も夜も一心不乱に祈祷を奉げた結果、ついに元永2年(1119年)5月28日に皇子が誕生。こちらが後の崇徳天皇(第75代)となります。
「でかした……!」
待望の皇子を授かった喜びで、鳥羽天皇はそれまでの冷遇から一転して長子を手厚く遇するようになったのですが、これで調子に乗ったのか、あるいは堀河天皇の霊が暴走したのか、長子はこんなことを口走ります。
「皇子の本当の父は白kw……「わわわわわ!何を言うのだ誰かこの痴れ者をつまみ出せ!」
実は待賢門院璋子は義理の祖父に当たる白河法皇と不倫をしていたという噂があり、それを鳥羽天皇に暴露することで、堀河天皇を失意に追いやった仕返しを図ったのでしょうか。
スキャンダルをバラされかけた白河法皇は、慌てて「長子が『自分の兄・藤原道経を近江の国司に任ぜよ』と、堀河天皇の霊を騙って私利私欲を追求した」などとして長子を追放。
その後は故郷に帰ったのか消息は不明、歴史の表舞台から姿を消したのでした。
終わりに
身分違いの恋に身を焦がし、愛する堀河天皇が崩御して後は、その霊媒として一体となった?藤原長子。
彼女の身分がもう少し高ければ、中宮とはいかなくても女御(にょうご)でも更衣(こうい)でも、より側近くで幸せになれたのでしょうか。
でも結局、若くして堀河天皇を失ったショックから「霊が乗り移る」結末は変わらなそうな気がしなくもありません。
ともあれあちらでは、幸せになって欲しいものです。
※参考文献:
久曽神昇『新勅撰和歌集』岩波文庫、1997年3月
保立道久『平安王朝』岩波書店、1996年11月
森本元子『讃岐典侍日記』講談社学術文庫、1977年10月
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