4月に入り新生活が始まりました。
1月から3月の受験シーズンでは合格祈願のために、学問の神様・菅原道真(すがわらの みちざね)を祀っている太宰府天満宮や北野天満宮、そして全国各地に残る「天神様」へお参りに行った人も多いでしょう。
そんな全国で学問の神様と称えられている菅原道真ですが、実は試験の成績は「中の上」だったと言われています。
今回の記事では、菅原道真の学問について紹介していきます。
学問のエリート家系に生まれた菅原道真
菅原道真は、平安時代の学者・政治家だった人物です。
道真の家系は祖父・清公、父・是善と続けて文章博士(今でいう漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる)となっている所謂エリート一家。
そんな家系で生まれた道真は、幼少のころから非常に聡明で5歳の時には和歌を詠み、11歳で作詞をしたと言われています。
そして15歳になって元服すると文章生(今でいう大学生、定員20名)になるために猛烈に勉強して、18歳で見事合格。
道真の祖父が20歳、叔父が23歳で試験に合格したことを考えると、道真が相当な秀才であったことが分かります。
そしてこの文章生20人のうち、成績が特によかった2人だけが最高の国家試験である「方略試」を受けることが出来るシステムになっていました。
道真は、この方略試を受けるべくさらに勉強に勉強を重ね、26歳で挑むことになりました。
猛勉強の末、受験するも成績は…?
このときの問題は「氏族を明らかにしなさい」「地震(ないふる)を論じなさい」という2問でした。
しかし、この試験の道真の成績はなんと「中の上」だったと言われています。
「学問の神様」とまで言われる道真ですから、ぶっちぎりの首席で難なく合格…かと思いきや「上の下」さえ取れなかったのです。
この試験の合格者の成績は「上の上」「上の中」「上の下」そして「中の上」の4段階で分けられていました。
道真の取った成績「中の上」は、試験に合格できるギリギリのラインでした。下手をすれば落ちていたかもしれません。
しかし、道真ほどの人物がなぜ間一髪の合格だったでしょうか。
それは「方略試」という試験に理由があるのです。
過去200年で60数名しか合格できない狭き門
実は方略試は「受験できるだけでも名誉」とされるほどの超・難関試験で、200年以上続く試験の中で合格した人はわずか60数名。
判断基準も非常に厳しく、受験者のほとんどが「中の上」だったと言われています。
必死に勉強をしてきた道真にとって、この成績は不満だったかもしれません。
しかし、その後の道真は文章博士を経て、政治の世界で大活躍。
出世街道を上りつめて、やがて右大臣になりました。
他の貴族から嫉妬され、陥れられる
有力貴族であった藤原氏や他の貴族と違い、ただの学者の家柄出身である菅原道真が高い役職に就いたことに、嫉妬する貴族も多かったようです。
そして藤原時平を中心に、道真を政界から追い出そうとする動きが強まっていきます。
道真が右大臣に就く少し前に、道真を重用してきた宇多天皇は、息子の醍醐天皇に位を譲っていました。
また、菅原道真の娘は、醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁いでいました。
藤原時平は、この関係性を利用して道真をおとしいれようとしたのです。
時平は醍醐天皇にこう告げます。
「道真は醍醐天皇を廃し、天皇の弟であり、道真の義理の息子にあたる斉世親王を天皇の位につけようとしている」
これは根拠のない噂であったと言われています。
しかし醍醐天皇は有能な道真に天皇の位を脅かされることを恐れ、道真を大宰府の役人に任命し、都から遠い九州の地に追いやってしまいます。
そして道真は、その2年後に病にかかり亡くなってしまったのでした。
道真亡き後、次々起こる不可解な現象
道真が亡くなって間もなく、都では藤原時平をはじめ、道真の左遷にかかわった人が次々と不審な死を遂げます。
また、日照りや洪水、落雷といった異常気象が多発し、疫病も流行したのです。
「道真公の祟りではないか…?」
相次いで起こる異変に、都の人々は噂し始めます。
祟りを恐れた朝廷は、道真の左遷を取り消して名誉を回復しようと試みますが、異変は一向におさまりません。
そして間もなく、醍醐天皇も宮中への落雷に関するショックで亡くなってしまいました。
「道真の怨霊だ!」と恐れをなした人々は霊魂を鎮めるために、大宰府や京都の北野に神社を建て、道真を祀ることにしたのです。
そして時が経ち怨霊の要素は薄れ、道真は現在のような「学問の神様」として祀られるようになりました。
おわりに
学問の神様として祀られている菅原道真。
「中の下」という成績に意外性を感じた方も多いでしょう。
しかし、とんでもない難関試験である方略試を突破し、学問を武器に右大臣にまで出世した実力派だったことは間違いありません。
参考 :
菅原道真-学者政治家の栄光と没落 著:滝川 幸司
先生の雑談 日本史の時間 編集:雑談教育委員会
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