2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートしました。
主人公は『源氏物語』の作者として知られる紫式部です。
始まったばかりのドラマに水を差すかもしれませんが、『源氏物語』には大きな謎があります。
『源氏物語』が書かれたのは、政権争いにおいて源氏が藤原氏に敗れて、中央政権から完全に駆逐された時期になります
さらに物語の内容を簡単にまとめると、源氏が藤原氏を蹴散らし栄華を極めるストーリーなのです。
なぜ藤原氏の血を引く紫式部が、ライバルであった源氏を称える作品を書いたのか。
そして藤原道長は、そんな作品が世に出ることをなぜ認めたのでしょうか。
今回の記事では少し時間をかけて、日本を代表する名作『源氏物語』が誕生した真相について迫っていきたいと思います。
日本人が競争を嫌うのは「怨霊」が怖いから
古来から日本人は「競争」よりも「和」を重視する国民性を育んできました。競争には勝者と敗者が生まれ、敗者は「怨霊」となって祟ると信じられてきたからです。そのため、日本人は競争をできるだけ避け、互いに譲り合う文化を培ってきました。
ただし、政治闘争だけは例外でした。政権の座というのは唯一無二の存在であるため、争いを避けることはできません。
長屋王や早良親王が怨霊伝説の主人公となったのも、政権を巡る競争で敗れた結果に由来するものです。
このように日本人は、本能的に競争を嫌う国民性を持ちながら、政治の世界では競争を余儀なくされてきました。政治の敗者が怨霊となって、現れてしまう土壌が日本にはあったと言えるでしょう。
平家が滅んだ理由
紫式部とは直接関係ありませんが、平清盛の有名なエピソードに触れたいと思います。
平清盛は、政争においてライバルの源義朝を打ち負かし、義朝の子供たちの生殺与奪権を手に入れました。本来であれば、後々の災難の芽を未然に防ぐため、子供たちもろとも殺すつもりでした。
しかし、清盛の義母である池禅尼が、義朝の末子・頼朝の命乞いをします。禅尼は「頼朝は、亡くなった私の実子にそっくりなのだ」と涙ながらに訴えたのです。この頼みを断ることができなかった清盛は、頼朝の命だけは助けることにしました。
ところが、この頼朝こそが鎌倉幕府を開き、のちに平家を滅ぼすことになります。政争においては、勝った者がきっぱりと敗者を抹殺しなければ、のちに必ず禍根を残します。清盛の判断ミスが、平家滅亡の遠因となってしまいました。
政治的判断においては、情の論理と相反する選択を迫られるときがあります。清盛は情に流され、最悪の結果を招く判断を下してしまったのです。
政治闘争では、勝者が敗者を生かしたまま放置しておくことは危険でした。平安時代以前の皇位争いや政権争いでも同様で、勝った側は敗れたライバルを抹殺しておかないと、のちに大きな問題になりかねません。
そのため多くの場合、敗者は敗れたがゆえに殺害されました。勝者にとっては防衛手段でありますが、敗者からすれば非業の死になります。
この「怨まれた死」こそ、敗者の霊が怨霊となる所以なのです。
藤原氏に唯一対抗した嵯峨「源氏」
平安時代、政治闘争の結果として最終的に勝利を収めたのは藤原氏でした。藤原氏は「関白」という天皇の代理人的な職を独占し、権力を握ります。
藤原氏が「関白」を独占するまでの流れを見ていきましょう。
藤原氏の勢力拡大に対して、天皇家は菅原道真を重用することで対抗しようと試みましたが、失敗に終わります。そして最後に藤原氏と競い合ったのが、嵯峨天皇の子孫である「嵯峨源氏」です。
嵯峨天皇の時代、藤原氏が朝廷の要職を次々と独占しつつある状況でした。このままでは国政が藤原氏の意向だけで動くことになり、天皇家の発言力が失われてしまいます。
そこで嵯峨天皇は、自分の皇子たちを臣籍降下させ、源氏の姓を与えます。皇族のままでは朝廷の要職に就けないため、源氏として臣籍降下すれば、要職につけるようになるからです。
こうして朝廷で力をつけた嵯峨源氏は、藤原氏を政敵とみなし、激しく競争します。右大臣と左大臣を源氏と藤原氏が独占する時期もあったほどです。
結果として藤原氏は「関白」という天皇の代理人的な職を独占することになります。関白は実質的な政治の実権を握るポストであり、これを手中に収めたことが藤原氏の勝利への道を開くことに繋がりました。
一方、嵯峨源氏も激しく抵抗しましたが、関白の座を奪うことはできませんでした。藤原氏による関白職の独占が決定打となり、源氏の努力は水の泡となります。
以後、藤原氏の全盛時代が始まります。嵯峨源氏を唯一のライバルと認めつつも、確固たる支配力を築き上げていったのです。
参考文献:
梅原猛(2008)『神と怨霊』文藝春秋
井沢元彦(2013)『学校では教えてくれない日本史の授業』PHP研究所
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