室町時代

鎌倉に点在するぽっかり空いた謎の洞窟『やぐら』の正体とは?

「やぐら」は鎌倉時代特有の横穴式墳墓

画像 : 東瓜ヶ谷やぐら群 Ktmchi CC BY-SA 3.0

鎌倉を歩いていると、街のあちこちで、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟のような穴を目にすることがある。

これが、鎌倉特有の中世の横穴式墓所「やぐら」である。

鎌倉は三方を山に囲まれた要害の地である反面、平地が少ない土地柄だ。

現在の鎌倉市の人口はおよそ17万人だが、1180年(治承4年)に源頼朝が鎌倉に入った当時は、定住していた人はごくわずかであったと『吾妻鏡』に記されている。

ところが、その鎌倉に幕府が開かれると、鶴岡八幡宮をはじめ、永福寺や浄光明寺などの社寺が次々と建立された。

さらに、若宮大路を中心に御家人たちの屋敷が立ち並ぶようになり、都市化が急速に進んだことで、鎌倉は次第に一種の過密状態となっていった。

それも当然のことであろう。

現在の鎌倉市の総面積は39.66平方キロメートル、東西約8.7キロメートル、南北約5.2キロメートルにすぎない。

その範囲の中に、鎌倉時代の最盛期には一説によれば5万〜10万人もの人々が暮らしていたという。

狭い土地に人口が増加したことで、都市生活を送るうえでさまざまな弊害が生じた。

その一つが、亡くなった人を葬る場所、すなわち墓を建てる墓地の敷地が不足したことである。

画像:唐糸やぐら public domain

そのため鎌倉では、崖を削り、岩をくり抜いて、そこに遺骨あるいは納骨器を納めた「やぐら」がつくられた。

この「やぐら」こそ、貴重な平地を犠牲にせずに営むことができた唯一の墓であった。

「やぐら」の基本構造は、玄室と呼ばれる方形の空間で、その中央には仏像や供養塔が安置される。

なかには壁面に彫刻が施されたものもあるが、これは死者を供養する堂宇としての機能を兼ね備えているからだ。

常に死と隣り合わせに生き、日夜戦いに明け暮れた鎌倉武士たちは、神仏への信仰が篤かった。
そのため、やぐらによる供養は鎌倉の地で盛んに行われたのである。

現代の鎌倉は、今や国内外を問わず大人気の観光地となっている。

特に小町通りなどの人気スポットは、休日はもとより平日でも、人・人・人の大洪水だ。

ただし、谷戸や寺院の奥などにひっそりと口を開ける「やぐら」は、鎌倉の歴史の息づかいをもっとも色濃く伝える貴重な遺構といえるだろう。

それでは、現在も3,000基超残るという「やぐら」のなかから、7つの「やぐら」を紹介しよう。

「明月院やぐら」~明月院を開いた上杉憲方の墓~

画像:明月院やぐら public domain

あじさいの名所として知られる北鎌倉・明月院の開山堂の横には、鎌倉最大級の「やぐら」がある。

このやぐらは、同寺を開いた山ノ内上杉家第5代・上杉憲方(うえすぎのりまさ)の墓とされている。

憲方は、南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した武将であり、守護大名でもあった。

関東管領として1380年(康暦2年)に起きた小山氏の乱などで戦功をあげ、上野・武蔵・伊豆・下野・安房の各国の守護職に任ぜられた。

やぐらの壁面には基壇が設けられ、そこには釈迦如来と多宝如来の浮彫が施されている。

さらに基壇の上部には十六羅漢の浮彫もあり、このことから「羅漢洞」とも呼ばれている。

「切腹やぐら」~北条高時ら北条一党の聖域~

画像:東勝寺跡の腹切矢倉 public domain

退耕行勇が開山し、第3代執権・北条泰時の開基とされる「東勝寺跡」に残る「やぐら」が「切腹やぐら」だ。

1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞による鎌倉攻めの際、北条高時はこの東勝寺に立て籠もった。

しかし形勢不利と見るや、一族および郎党870名とともに自ら火を放ち、自刃した。

これにより、鎌倉幕府は滅亡を迎える。

「切腹やぐら」という名は、この悲劇に由来し、北条一党の亡骸を葬った場所と伝えられている。

「大江広元の墓」~頼朝供養の法華堂跡に残る~

画像:大江広元の墓 public domain

鎌倉幕府の創始者・源頼朝と、第2代執権・北条義時の供養のために建てられた堂である法華堂跡。

その背後、東の谷の中腹には岩窟が3つ並び、大きな石碑と玉垣に囲まれた墓域となっている。

3つの「やぐら」のうち、中央は大江広元、左はその子で毛利氏の祖とされる大江季光、右は頼朝の庶子と伝わる島津忠久の墓と伝えられている。

広元は京都から招かれ、頼朝の側近として「政所別当」を務めた人物である。

その子孫には、中国地方を統一した戦国大名・毛利元就がいる。

「三浦一族の墓」~名門御家人三浦泰村の墓と伝わる~

画像:三浦一族のやぐら public domain

1247年(宝治元年)、執権・北条時頼と、その反対勢力である三浦泰村ら三浦一族との間で「宝治合戦」が起こった。

この戦いで滅亡した三浦一族の墳墓が、法華堂跡の山腹にある。

三浦氏は幕府の有力御家人として、北条氏に次ぐ地位を与えられており、泰村は将軍に近侍して、その勢力は北条氏を凌ぐほどであったといわれる。

しかし、時頼の外戚である安達氏が三浦氏に反発したことから、両者の関係は悪化していった。

「宝治合戦」は、安達景盛ら安達一族による三浦館への奇襲に始まり、やがて北条氏も安達側として出陣するに至った。

泰村をはじめとする三浦一族とその与党約500名は、頼朝を供養する法華堂に立て籠もった末に自害し、一族は滅亡した。

「多宝寺址のやぐら群」~僧侶や檀那を埋葬したやぐら~

画像:多宝寺址のやぐら群 public domain

幕府連署(執権に次ぐ地位)であった北条重時の四男、北条業時の招きで忍性が開山となったとされる多宝寺址。

その境内に残るやぐら群が「多宝寺址のやぐら群」である。

「やぐら」に葬られたのは武士階級だけではなかった。

「多宝寺址のやぐら群」は、鎌倉後期から室町中期にかけて、多宝寺の僧侶や檀那を埋葬したものと考えられている。

その中でも、多宝寺長老・覚賢の五輪塔は約3メートルという巨大なもので、やぐら群の一部は鎌倉市の文化財に指定されている。

「百八やぐら」~さまざまな形のやぐらを見られる~

画像:百八やぐら public domain

覚園寺の山門跡から、天園ハイキングコースへと向かう山道にある鎌倉最大級のやぐら群が「百八やぐら」だ。

その名の通り百八を超える岩窟があるといわれており、仏教の百八の煩悩になぞらえて名前がつけられたという。

「やぐら」の内部には五輪塔・宝篋印塔・仏像が置かれているほか、梵字が刻まれたもの、仏像が刻まれたものなど、あらゆる形式の「やぐら」を見ることができる。

「瓜ヶ谷やぐら群」~五輪塔などの壁面彫刻が残される~

画像:東瓜ヶ谷やぐら群の第一窟 public domain

葛原岡・大仏ハイキングコースの葛原岡神社を過ぎ、浄智寺へ向かう途中、北側に下った場所にあるやぐら群。

鎌倉時代のやぐら群で、5つの穴から構成されており、地蔵菩薩像が安置されているものは「地蔵やぐら」と呼ばれている。

鳥居や五輪塔などの壁面彫刻が多く残されており、市指定史跡となっている。

このように、鎌倉を代表する遺跡の一つである「やぐら」は、非常に興味深い存在だ。

ただし、「やぐら」は人の霊を祀る神聖な場所であるため、訪れる際には崇敬の念を忘れないようにしよう。

※参考文献
鎌倉仏像さんぽ編集室(高野晃彰)著 『鎌倉 仏像さんぽ』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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