いきなりですが、借金って嫌ですよね。
借りる方(債務者)はもちろん、貸す方(債権者)だって心苦しいもの。古来「貸す時は仏の顔、返す時は鬼の顔」などとはよく言ったもので、取り立ての精神的ダメージはむしろ債権者の方が大きいのではないでしょうか。
しかし返す側もあえて踏み倒そうとするのは論外としても、返したくても返せないほど困窮しているパターンも少なくありません。
それをいくら責め立てようがビタ一文出て来ない……そんな時、皆さんならどうしますか?
今回は『吾妻鏡』より、北条泰時(ほうじょう やすとき)のエピソードを紹介したいと思います。
相次ぐ凶作に、かさむ不良債権
時は建仁元年(1201年)10月5日。江馬太郎こと北条泰時は、伊豆国北条(現:静岡県伊豆の国市)の地へやって来ました。
昨年は凶作だったため、農民らに田植え用の種もみ五十石(約7.5トン)を貸し与えていたのですが、今年も台風で凶作。
返済のめどが立たない債務者たちが夜逃げを考えているということで、泰時はそれを引きとどめる説得を命じられたのです。
「さて、どうしたものか……」
山と積み上げられた借用証文を前に、泰時は考えました。
ただ「逃げるな」と言ったり、脅したりしても逃げる者は逃げるもの。そうなると債権を回収できないばかりか、不徳の評判が広がってしまうでしょう。
「……よし分かった。明日、みなを集めよ」
泰時は沙汰人(代官)にそう命じると、自らは宴席の支度を始めるのでした。
みんなの前で証文を……
そして翌朝。泰時に招かれた農民たちは、何を言われるかと気が気ではありません。
「こっぴどく責められるんじゃろうか……」
「代わりに何か差し出せとか、言われたらどうしよう……」
「あるいは来年の年貢を重くするとか……」
めいめいの心配をよそに、泰時は農民たちを酒と料理でもてなします。
「皆さん、今日はようこそおいで下さいました。まずは一献……」
責められると思っていたら手厚い歓迎。面食らっている農民たちに、泰時は借用証文を持って来て言いました。
「去年に続いて今年も凶作、皆さんの暮らしが大変なことはよく分かっています。そこで去年お貸しした種もみですが、これは一切棒引きと致しましょう」
「「「えぇっ!?」」」
一同が驚いていると、泰時は紙燭など持って来させ、返済不可能と申告した者についてはその借用証文を次々と焼き捨てていきます。
「ご安心下さい。もし来年が豊作だったとしても、年貢を重くするようなことは致しません。また一人あたり米一斗(約15キロ)を進呈しますので、どうかお役立て下さい」
借りた分の棒引きだけでなく、無償で米を分けてくれるとは……農民たちは感激して「神様、仏様、太郎様」とばかり手を合わせ、その子孫繁栄を祈ったという事です。
どうせ返って来ないなら……
建仁元年十月大十日丁亥。霽。江馬太郎殿自伊豆國令歸着給。
※『吾妻鏡』建仁元年(1201年)10月10日条
「どういう事だ?」
10月10日。鎌倉へ帰った泰時は、父・北条義時に尋ねられました。確かに逃げないよう説得しろとは言いましたが、椀飯振舞にもほどがあります。
「はい。宴席を設けたのは、債務者が一堂に会することで返済可否について嘘がつけないようにしたのです」
「なるほど」
「返せる者は返すと約束させ、返せない者はどれほど責めようと無い袖は振れません。なお取り立てれば逃げ出して『領主は民よりも財を愛し、民は領主を裏切る。領主が領主なら、民も民だ』と隣国にまで悪評が広がるでしょう」
「まぁ、そうなるな」
「であれば、どうせ返って来ない証文を焼き捨てるパフォーマンスで民の忠誠と名声を買ったと考えれば、安いものです」
「うむ。でかした」
19歳という若さでここまで知恵を巡らせるとは実に末頼もしい……義時は大いに喜んだのでした。
終わりに
建仁元年十月大六日癸未。江馬太郎殿昨日下着豆州北條給。當所。去年依少損亡。去春庶民等粮乏。央失耕作計之間。捧數十人連署状。給出擧米五十石。仍返上期。爲今年秋之處。去月大風之後。國郡大損亡。不堪飢之族已以欲餓死故。負累件米之輩兼怖譴責。挿逐電思之由。令聞及給之間。爲救民愁。所被揚鞭也。今日。召聚彼數十人負人等。於其眼前。被燒弃證文畢。雖屬豊稔。不可有糺返沙汰之由。直被仰含。剩賜飯酒并人別一斗米。各且喜悦。且涕泣退出。皆合手願御子孫繁榮云々。如飯酒事。兼日沙汰人所被用意也。
※『吾妻鏡』建仁元年(1201年)10月6日条
以上、若き泰時の名君エピソードを紹介しました。しかし実はこれ、中国古典『史記』『戦国策』のパクリ疑惑があります。
馮驩(ふう かん。紀元前3世紀ごろ)なる人物が「どうせ取れない借金なら証文を焼き捨てる&更にお米も与える」というパフォーマンスで民の忠誠と名声を買ったのでした。
『吾妻鏡』が編纂された鎌倉時代後期には北条氏(こと得宗家)が絶対の存在となっており、こうした古典を元に「北条スゴイ伝説」をでっち上げたとも言われています。
しかし紀元前のことですから、泰時がそれを知っていて実際の政務に活用した可能性も否定できません。まさに「歴史に学んだ」と言えるでしょう。
どちらにせよ、私たちも歴史を活かして先人たちの英断を見習い、よりよく生きる糧としたいものですね。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
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