……而泰村以下爲宗之輩二百七十六人。都合五百余人令自殺……
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月5日条
【意訳】三浦泰村はじめ一族276名、併せて500名以上が自刃した。
鎌倉幕府の政権を将軍(鎌倉殿)の手に取り戻すべく、執権・北条一族と対立していた三浦一族。
避けがたく激突した両者の最終決戦(宝治合戦)は、北条時頼(ほうじょう ときより)が勝利を収め、三浦泰村(みうら やすむら)はじめ500名以上の自刃をもって幕を下ろしたのでした。
ここで源家累代の大豪族・三浦一族は滅亡したものとされていますが、その家名は完全に断たれてしまった訳ではありません。
今回は宝治合戦を生き延びて後世に三浦の家名を受け継いだ三浦家村(みうら いえむら)とその子孫たちを紹介したいと思います。
三浦家村のプロフィール
三浦家村は生年不詳、三浦義村の四男として誕生しました。通称は駿河四郎(するがのしろう)、後に左衛門尉(さゑもんのじょう)、式部大夫(しきぶのじょう。式部丞)となりました。
藤原頼経(ふじわらの よりつね。第4代)と藤原頼嗣(よりつぐ。第5代)と二代の鎌倉殿に仕え、『吾妻鏡』には兄の三浦泰村・三浦光村(みつむら)たちと一緒に登場しています。
弓に長けていたようで流鏑馬や笠懸などのイベントがあると射手としてしばしば出場。他にも将軍の夜遊びにお供したり、ちょっとしたことで大喧嘩して出勤停止処分をくらったり、隠し芸大会に出場したり……等々。
怖いんだか愉快なんだか、何とも憎めないキャラクターだったのでしょう。普段は面白いけど、いったんキレると手がつけられない……そんな人物像が浮かんできます。
そんな家村がかの宝治合戦においてどのように戦い、武勇を奮ったのかについて、残念ながら『吾妻鏡』に記述がありません。
果たして三浦一族が滅亡した後、家村のものとされる首級が首実検に出されたものの、容易に判別できない状態だったと言います。
……今日逆黨首等實檢云々。又光村。家村等之首。頗有御不審。未被一决云云……
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月6日条
【意訳】今日、逆賊の首実検を行なった。光村と家村の首級については判別が難しい状態で、当人のものとは断定できなかったとのこと。
何でも光村は自刃に際して自分の首級と判らぬよう、顔面をズタズタに斬り裂いたと言います。
家村もこれに従った……と見せて首実検の時間を稼ぎ、家村を逃がしたのではないでしょうか。
頼経将軍につかへ、宝治元年兄若狭守泰村が謀反にくみし、六月五日一族みな自殺のときにのぞみて、泰村名族の一時に亡むことを憂ひ、ひそかに家村に命じて後裔をたもつべしとなり。家村遺訓によりて其所を遁れさり、諸国を経歴してのち三河国に閑居す。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百二十一「平氏 良文流 三浦」より
【意訳】藤原頼経に仕え、宝治合戦で三浦一族の滅亡に際して泰村が三浦の血脈を保つよう命じられた家村は鎌倉を脱出。諸国を放浪して三河国(現:愛知県東部)へ潜伏した。
……その後、光村の首級については何とか本人と確認がとれたものの、家村のそれについては偽物と判断され、6月22日の最終戦果報告では結局「存亡不審(生死および行方不明)」として片付けられたのでした。
令和の現代まで続く三浦家村の子孫たち
かくして歴史の表舞台から姿を消した三浦家村。その子孫は永らく三河国碧海郡重原荘(現:愛知県刈谷市)に暮らしたと言います。
【三浦氏略系図】
為通(ためみち。三浦初代)-為継(ためつぐ)-義継(よしつぐ)-義明(よしあき)-義澄(よしずみ)-義村(よしむら)-家村(いえむら)-義行(よしゆき)-行経(ゆきつね)-朝常(ともつね)-朝胤(ともたね)-正胤(まさたね)-重明(しげあき)-正明(まさあき)-重村(しげむら)-正村(まさむら)-正重(まさしげ)-正次(まさつぐ)-安次(あきつぐ)-明敬(あきひろ)-明喬(あきたか)-義理(よしさと)-明次(あきつぐ)-矩次(のりつぐ)-前次(ちかつぐ)-毗次(てるつぐ)-誠次(のぶつぐ)-峻次(としつぐ)-義次(よしつぐ)-朗次(あきつぐ)-弘次(ひろつぐ)-顕次(たかつぐ)……
戦国時代、三浦正重は土井利昌(どい としまさ)の娘を娶り、やがて徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えました。
子の三浦正次は徳川秀忠(ひでただ)に仕え、一時三浦から土井と改姓したものの、やはり由緒ある家名を絶やすのは惜しいと三浦姓に戻しています。
やがて大名に取り立てられ、明治維新まで三浦の名を伝えるのでした。
一度は絶滅の危機に立たされた三浦一族。泰村の命を受けて恥を忍び、家名を受け継いだ家村の思いは、今も子孫たちに受け継がれていることでしょう。
※参考文献:
- 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年11月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
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