鎌倉時代

日本のおとぎ話の原型~ 宇治拾遺物語とは? 「当時の侍たちの面白い伝承」

日本おとぎ話の原型になった「今昔物語」と並ぶ「宇治拾遺物語」(うじしゅういものがたり)。

1212年(建暦2年)~1221年(承久3年)にまとまったと云われるこの物語において、当時の武士や侍は、どのように描写されていたのか?

「宇治拾遺物語」とは?

宇治拾遺物語とは?

画像:『宇治拾遺物語』より「御堂関白殿の犬」(岳亭春信画) ブルックリン美術館所蔵

宇治拾遺物語は、『宇治大納言物語』に載せ切れなかった話を拾い集めたと云われている。

『宇治大納言物語』は、源隆国(みなもと の たかくに)編集とされる。

隆国は平安後期の公卿で、第60代醍醐天皇皇子を祖とする源一族である源俊賢の次男である。
因みに、父・源俊賢は、平安時代藤原氏最盛期の藤原道長の側近だった。

隆国は、1067年(治暦3年)権大納言(正二位)となったが、官職引退後、宇治に住んだので「宇治大納言」と呼ばれた。
彼は、通行する人々に昔の物語を語らせ、紙に書き留めたという。

収められた15巻には、197話が掲載されている。
日本・天竺(インド)・大唐(中国)の三国を舞台に、貴い話や恐ろしい話、ほら話など様々な話が載せられている。

その中には平安時代末期成立の「今昔物語」など、「宇治拾遺物語」より早く編集された説話集と似た話も多い。

今回紹介する「宇治拾遺物語」は、日常生活からユーモラスな話まで範囲が広い。

「宇治拾遺物語」に登場する侍・武士像

・狐、家に火つくる事

甲斐国(山梨県)国司付きの侍は、夕暮れに館を出て自宅へ帰ろうとしたところ狐に会い、その狐の腰に矢を当てた。

この狐は仕返しとばかり、侍の家へ火を付けてしまう。結果、侍は家を焼け出される。

神の使いでもある狐を思慮なく懲らしめると、災いを被る結果になる」と、物語は結んでいる。

この侍は、人々が崇める狐に容赦なく矢を射かけ、家を焼かれる復讐をされた思慮浅はかな者として描かれている。

・「検非違使忠明の事」

宇治拾遺物語とは?

画像:狩装束画像:知恩院を警護する検非違使 「法然上人行状絵図」48巻(知恩院蔵)

京都治安維持を受け持つ侍・忠明が、清水寺の橋で無頼な若者達と喧嘩になった。

それぞれが刀を抜き、追い詰められた忠明は、蔀(しとみ=格子裏・目隠し板)を脇に挟んで谷へ身を躍らせる。

板のおかげで彼は鳥のように軽く谷底に舞い降り、逃げ去った。

喧嘩相手はこの行動にあきれて悔しがったが、後の祭りである」と締めくくられている。

生死の瀬戸際で大胆不敵な行動をとった侍に対して、驚きと称賛を込めて喝采する視線が見える。

・東人、生贄を止むる事

宇治拾遺物語とは?

画像 : 猿丸神社(宇治田原町)境内 wiki c Wikiwikiyarou

山陽美作国(岡山県北部)に、毎年美しい娘を生贄を求める猿神がいた。

ある家のとても美しい娘が生贄に指名され、家族たちは嘆き悲しむ日々を送っていた。

そこへ狩りを生業とする荒武者・東人(あずまひと=関東及び東北人)がやって来た。

生贄に指名された娘を見た東人は、娘の父親に事情を聞く。
そして「自分に娘を預けて欲しい」と熱心に頼み、結婚の許しも得た。

東人は娘と結婚した後、彼女を生贄から救う準備を始める。
長年、狩りを共にしてきた中で最も賢く強い犬を二頭選び、生きた猿を捕らえて食い殺す訓練を施した。また自身は太刀を研ぐなど武器の準備をする。

生贄を捧げる祭り日、彼は犬二頭と共に生贄の入る長櫃(衣服などを入れる長箱)に隠れた。

社に着くと、二メートル超えの白い大猿が正面に現れ、大猿に従う猿二百頭が並んでいた。
社では、生贄を調理するための大きなまな板、長い包丁刀、酢・酒・塩などの調味瓶が多く用意されていた。

白い大猿がいよいよ長櫃の蓋を開けようとした時、他の猿も次々に寄ってきた。
その瞬間、東人は犬たちに猿に食いつくように命じ、自身は研ぎ澄まされた刀を手にして躍り出た。
そして大まな板に大猿を引き倒し、首に刃を当てて言った。

「お前らが人の命を奪い、肉を食らうからこうなるのだ。首を斬って犬に食わせるぞ」

猿たちは、犬に追われて木の上に逃げた。

猿神は神主に取り憑いて「今日から生贄を求める事は決してしないから、我を助けよ」と命乞いをしたが、東人は耳を貸さなかった。

いよいよ猿神の首が切り離される瀬戸際に、宮司が猿神とやり取りして誓詞を引き出し、これ以降、人を生贄する事はなくなったのである。

その後、由緒正しき家柄の子孫だった東人は丁重に扱われ、助けた娘と末永く幸せに暮らした。

東人の荒々しい気性を恐れながらも、命を賭けて弱きを助ける勇気に感嘆する姿が描かれている。

最後に

武器を持ち、戦いを生業とする武士・侍達は「リアリスト」である。

当時の人たちから見ても、自分の眼で見たものしか信用せず、崇められた生き物を懲らしめることすら躊躇しない武士や侍は、良くも悪くも異質な存在だったようである。

 

 

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