乳兄弟(ちきょうだい)……あまり耳慣れない言葉ですが、これは乳母(うば、めのと)を介した兄弟、言うなれば「同じ乳母に育ててもらった間柄」を示すものです。
具体的には、あなたに乳母がいたとして、その乳母に子供(甲)がいたり、養子(乙)をとっていたり、甲の結婚相手(丙)など、この甲乙丙はいずれもあなたの乳兄弟と見なされます(諸説あり)。
現代的な感覚で見れば完全に赤の他人ですが、この乳兄弟は時として実の兄弟以上に強い絆で結ばれており、例えば『平家物語(へいけものがたり)』で木曾義仲(きその よしなか)に最期まで仕えた今井兼平(いまい かねひら)のエピソードは有名ですね。
しかし、乳兄弟だからと言って誰もが忠義に篤かった訳ではなく、中には仁義もへったくれもない武士もいたようです。
今回紹介するのは山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)。源頼朝(みなもとの よりとも)公の乳兄弟なのですが、そのキャラクターの濃さと悪運の強さを見ていきましょう。
挙兵する頼朝公を罵倒
山内首藤経俊は平安時代末期の保延3年(1137年)、山内首藤俊通(としみち)と山内尼(やまのうちのあま。頼朝公の乳母)の子として誕生しました。
山内首藤家は代々源氏に仕えた家柄でしたが、父と長兄・山内首藤俊綱(としつな)が平治の乱で討死(平治元・1160年)し、家督を継ぐと頼朝公を疎んじるようになります。
「……落ちぶれた佐殿(すけどの。頼朝公の通称)など、下手に関わり合いになったら平家に睨まれかねんからのぅ」
それから20年の歳月が流れた治承4年(1180年)、平家政権の横暴に耐えかねた以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第3皇子)が挙兵すると、次兄の山内首藤俊秀(としひで)がこれに呼応。しかし奮戦虚しく討死してしまいました。
「まったく、バカな兄だ。相国(しょうこく。平清盛)様に抗って勝てるはずもなかろうに……」
と笑っていたら、今度は身近にもう一人バカが現れました。伊豆国蛭島に流されていた頼朝公です。
頼朝公は以仁王の挙兵には加勢しなかったものの、その鎮圧後に全国各地の源氏残党を掃討しておこうという平家政権に追い詰められての挙兵でした。
「源家累代の家人であり、乳兄弟であるそなたを見込んで、是非とも力を貸して欲しいのだが……」
使者にやって来たのは、頼朝公の乳母である比企尼(ひきのあま)の婿である小野田盛長(おのだ もりなが。安達盛長)。彼もまた、頼朝公の乳兄弟と言える間柄です。
しかし、経俊の回答はこんなものでした。
……人ノ至テ貧ニ成ヌレハ、アラヌ心モツキ給ケリ。佐殿ノ当時ノ寸法ヲ以テ、平家ノ世ヲトラントシ給ハン事ハ、イサイサ富士ノ峰ト長ケ並ヘ、猫ノ額ノ物ヲ鼠ノ伺フ喩ヘニヤ。身モナキ人ニ同意セント得申サジ。恐シ恐シ南無阿弥陀仏々々……
※『源平盛衰記』より
【意訳】いやぁ、人間追い詰められるとバカなことを思いつくモンですな。流人に過ぎない佐殿が平家の天下を覆す?いやいや、そんなの富士山と背比べをしたり、ネズミが猫の額にあるモノを狙ったりするくらい無謀ですぞ。いやぁ、バカとは関わり合いになりたくありませんな。おお恐い恐いナンマンダブナンマンダブ……
まぁ確かに無謀だとは思いますが、にしても断り方ってモンがあるでしょうよ……と思うのはきっと筆者だけではないかと思いますが、果たして経俊は頼朝公の敵方として大庭景親(おおば かげちか)に参陣。
治承4年(1180年)8月23日の石橋山合戦では、平家政権に取り入ろうと張り切ったのか、頼朝公に矢を射放ち、それが鎧の大袖(肩から上腕にかけて保護する部分)を射貫いたと言います。
「はっはっは、これで相国様の覚えもめでたかろうて……!」
しかし、あと一歩のところで取り逃がしてしまった頼朝公は、海を渡って房総半島から華麗なカムバックを果たし、同年10月23日、経俊は大庭景親ともども捕らわれの身となってしまいました。
「いやあのその、当時はよんどころなき事情がございまして云々……」
必死の命乞いも虚しく、経俊は斬首となることが内定。しかし母の山内尼が、頼朝公に助命を願い出ます。
「どうか私に免じて、命ばかりはお助け下さいませ……」
「……」
頼朝公は部屋の奥から自分が来ていた鎧の大袖と、それを射貫いた矢を持ってきました。
大袖にはザックリと穿たれた穴と、矢柄(やがら。矢の棒部分)には自分の手柄をアピールするように「滝口三郎(たきぐちのさぶろう。経俊の通称)」と名前が書かれています。
「……っ!」
その意味するところを理解した山内尼は観念して引き下がりましたが、頼朝公は乳母への情愛が勝ったのか、結局は経俊を赦免することにしたのでした。
乳兄弟のコネでちゃっかり厚遇
「……やれやれ。何とか助かったわい。まったく佐殿め、この我をヒヤヒヤさせおって……ブツブツ」
さて、頼朝公に臣従した経俊は、特に武功も実績もないながら頼朝公の乳兄弟ということで優遇され、元暦元年(1184年)には伊勢・伊賀両国(現:三重県の大部分)の守護となりました。
「中には陰口する者もおるそうじゃが、利用できるものは何でも利用して上手く立ち回ってこその奉公ではないか……」
しかし、いささか調子に乗り過ぎてしまったようで文治元年(1185年)、頼朝公の推挙なく朝廷から官位を受け、頼朝公から厳しく叱責されてしまいます。
「下す、東國侍の内、任官の輩の内、本國に下向することを停止せしめ、おのおの在京して陣直公役を勤仕すべき事。(中略)もし違ひて墨俣以東に下向せしめば、かつはおのおの本領を改め召し、かつは斬罪に申し行はしむべきの状、件のごとし」
【意訳】お前らは朝廷から官位を受け、朝臣となったのだから、京都で奉公して本国へ帰るんじゃないぞ。もし背いて墨俣(現:岐阜県大垣市)より東に来たら、所領没収の上斬首してくれるわ!
「官好み、その要用なき事か。あはれ無益の事かな」
【意訳】ロクな仕事もしないくせに肩書ばっかり欲しがりやがって、まったく中身のない役立たずめ!
……まぁ、それでも結局は後に許され、御家人の列に戻っています(こういうところ、つくづく甘いと感じますが、それが頼朝公の魅力とも言えるでしょう)。
頼朝公の乳兄弟として地位を保たれ、謀叛を起こした源義経(よしつね)の残党征伐や奥州合戦に参陣、頼朝公の上洛に供奉するなど、過分の厚遇を受けました。
エピローグ
……が、頼朝公の死後は後ろ盾を失い、元久元年(1204年)に領国で発生した三日平氏の乱では叛乱軍の鎮圧に失敗して両国から逃亡。守護職を解任されてしまいます。
その後はこれと言った活躍もなかったものの嘉禄元年(1225年)まで命を永らえ、89歳で世を去りました。
こうしてざっと振り返ると「絵に描いたようなイヤなヤツ」、およそロクでもない人生ですが、その強烈なキャラクターと悪運の強さは、かえって心惹かれてしまいそうです。
令和4年(2022年)放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山口馬木也さんが演じることになっていますが、とことんエゲツなく世渡りしていく姿を楽しみに期待しています。
※参考文献:
- 永原慶二 監修『新版 全譯 吾妻鏡 第一巻』新人物往来社、1979年8月
- 細川重男『頼朝の武士団 ~将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉 (歴史新書y)』洋泉社、2012年8月
- 安田元久 編『鎌倉室町人名事典』新人物往来社、1990年9月
意図的に悪く書いているとしか思えない記事ですね。