時は元久2年(1205年)閏7月20日、北条義時(ほうじょう よしとき)は父・北条時政(ときまさ)を鎌倉より追放。
後妻・牧の方(まきのかた)に唆されて将軍・源実朝(みなもとの さねとも。頼朝の遺児)を暗殺せんと謀っていた疑いによるものです。
同月26日には時政らが次期将軍候補に擁立していた平賀朝雅(ひらが ともまさ)を誅殺。
「定可爲子孫之護歟(定めて子孫の護りたるべきか≒そなたはきっと我が子孫の守護者となるだろう)」
※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)11月14日条
かつて亡き頼朝公からそう言われた義時は、その期待に応えようと有力御家人の力を削ぎ、横一線に均そうと努めました。
そうすることで、将軍の権威を高めかつ維持することにつながるからです。
これまで梶原景時(かじわら かげとき)に比企能員(ひき よしかず)、そして心ならずも畠山重忠(はたけやま しげただ)を滅ぼしてきた義時。
次の標的は……下野国(現:栃木県)の大豪族・宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)でした。
やらせるなら他のヤツに…幕命を平然と拒否した小山朝政
宇都宮頼綱は治承2年(1178年)に宇都宮業綱(なりつな)の子として誕生しました。通称は弥三郎(やさぶろう)、同じ下野国の大豪族・小山政光(おやま まさみつ)の猶子となります。
猶子とは「なお子の如し」を意味し、家督継承権や財産相続権のない養子的な立場です。
成長すると頼朝に従い、文治5年(1189年)の奥州合戦(藤原泰衡討伐)に従軍して武功を立てました。この時まだ12歳ですから、恐らく初陣と考えられます。
やがて宇都宮の家督を継いだ頼綱は有力御家人の仲間入りを果たし、梶原景時の弾劾や畠山重忠の討伐に参戦。
北条氏の権力確立に貢献してきたものの、元久2年(1205年)8月7日に謀叛の疑いがかけられてしまいました。
「執権殿の就任を祝う名目で鎌倉を訪れ、一気に攻める肚づもりとか……」
義時はさっそく大江広元(おおえ ひろもと)と安達景盛(あだち かげもり。藤九郎盛長の子)と協議します。
「同族の左衛門尉(小山朝政)殿に討伐を命じてはいかがか」
小山朝政(ともまさ)は政光の子で、頼綱とは義兄弟に当たる関係。さぁどうする……と命じたところ、朝政はキッパリと命令を拒否しました。
「嫌だね。弥三郎は母方の親戚なんでな(叔家の好あり)」
「やらせるなら他のヤツに言ってくれ。ただし仮に弥三郎が謀叛を企んでいたとしても俺は与しないし、攻めて来るようなら全力で守ってやるよ(早く他人に仰せらるべきか。ただし朝政叛逆に与同せず、防戦においては筋力をつくすべきのよし)」
それが気に入らないってンなら俺が相手だ……そんな気迫で凄まれては、さすがの義時たちも譲歩せざるを得ません。
「ならば和戦いずれか、宇都宮の意思を確かめて参れ」
「ははあ」
さっそく朝政が頼綱を訪ねたところ、8月11日に頼綱の弁明書と、朝政の添え状が鎌倉へ届きました。
壮観!頼綱はじめ一族60数名が一度に出家
「書状によれば『謀叛など企んではいない』との事だが……」
「……どこのバカが『ハイ謀叛を企んでおります』などと申しましょうや。どうせ示し合わせているのでしょう。鵜呑みにはできかねますな」
ではどうすれば信じて貰えるのか……考えた結果、8月16日に頼綱は出家。法名を蓮生(れんしょう)と改めます。
「「「棟梁がご出家あそばすならば、我らもお供いたしましょうぞ!」」」
この時、頼綱と共に出家した一族郎党は何と60数名。頼綱の人望だけでなく、宇都宮一族の勢力と団結を示したのでした。ここまで来ると、謝罪の誠意を示すと言うよりほとんど脅迫です。
「許さねば、我ら一同がただではすまさぬ!」
……とばかりに意気込んで8月17日、頼綱は朝政と共に鎌倉へ。もちろん出家した一族郎党も一緒。坊主頭のコワモテ軍団を前に、義時らも固唾を呑んだことでしょう。
もしも交渉が決裂し、宇都宮・小山一族をまとめて相手するとなれば、北条方も無傷ではすまないはずです。
しかし、父を追放して幕府の執権となった以上、義時も怯んではいられません。内心の怯えを押し殺し、一度は面会を拒絶します。
「帰れ!」
これはきっと、かつて上総介広常(かずさのすけ ひろつね)が率いる二万騎の大軍を前に、たった数百騎の頼朝公が叱りつけて威厳を示した故事にならったのでしょう。
「まぁまぁ、そういきり立ちなさんな。せっかく頭下げてやってンだからよ」
精一杯のハッタリをかます義時の胸中を百も承知で、朝政は弟の結城朝光(ゆうき ともみつ)を呼び、頼綱の髻(もとどり)を届けさせます。
髻は結い髪の元であり、出家や自害など死(俗世との隔絶)を覚悟した時にまず斬る部分。これを他人の手に渡すことは何よりの屈辱であり、軍門に降る意思表示としてこれ以上のものはありません。
「……兄も宇都宮殿も、鎌倉と事を構える意思はございませぬ。どうか、ご寛恕を」
内心でホッとした義時は、頼綱改めの髷を検分してから朝光へ丁重に返還したということです。
終わりに
その後も大豪族たちの力を削ぎ、実朝の権威確立に奔走する義時は、承元3年(1209年)には守護の交代制を提言します。
土地に根づく豪族たちを定期的に引き離し、幕府に抗う力を蓄えさせまいとする目的があり、江戸幕府が大名たちを転封(所領を移転)させた制度に似ていますね。
しかし小山朝政・千葉成胤(ちば しげたね。千葉常胤の孫)・三浦義村(みうら よしむら。三浦義澄の子)らによって反対され、断念。
この時点では、まだまだ御家人たちの寄り合い所帯としての性格が強く、頼朝のカリスマに従ってきた者たちにすれば「北条如きが何を偉そうに」と思ったことでしょう。
北条が幕府の絶対的権威として、逆らうべくもない存在となるには、まだまだ長い道のりが待っているのでした。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 山本隆志『東国における武士勢力の成立と展開 東国武士論の再構築』思文閣、2012年2月
角田さん、毎回その場にいたみたいな語り口は、面白いから、頼朝暗殺未遂の裏に時政がいたかもされる
曽我兄弟の仇討ち、得意のその時代にいたように真実リクエストします。
名無しさん 様
面白いとお褒め頂き、誠にありがとうございます。
今後とも精進して参ります。
古来「講釈師 見て来たような 何とやら」とは言いますが、文献史料を元に、その隙間を推測や仮説を交えていることを承知の上でお楽しみ頂ければと思います。
曽我兄弟の仇討ちですね。リクエストありがとうございます。
順次とりかかりたく思います。