未熟な自分を侮られている(と感じられてならない)のが気に入らず、江間義時(演:小栗旬)ら十三人の宿老を敵視する源頼家(演:金子大地)。
「わしが選んだ、手足となって働いてくれる者たちだ。信じられるのはこやつらだけよ……」
※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27回放送「鎌倉殿と十三人」
そこで宿老たちに対抗するべく、頼家が抜擢したという若き親衛隊メンバーがこちら。
- 小笠原弥太郎長経(演:西村成忠)
- 比企三郎宗朝(演:Kaito)
- 比企弥四郎時員(演:成田瑛基)
- 中野五郎能成(演:歩夢)
- 北条五郎時連(演:瀬戸康史)
- 江間太郎頼時(演:坂口健太郎)
しかし6名中2名(宗朝と時員)が宿老である比企能員(演:佐藤二朗)の息子であり、時連と頼時は義時の身内。実のところ、宿老たちの影響から完全には逃れられていません。
ただし『吾妻鏡』では時連と頼時は入っておらず(大河ドラマの独自設定)、代わりに細野四郎(ほその しろう)と和田三郎朝盛(わだ さぶろうとももり)が途中から合流しています。
今回はこの和田三郎朝盛に注目。彼は和田義盛(演:横田栄司)の孫ということで、果たしてどんな生涯をたどるのでしょうか。
頼家・実朝の二代に仕える
和田朝盛は和田義盛の嫡男・和田常盛(つねもり)の嫡男として誕生しました(生年不詳)。通称は三郎、『吾妻鏡』での初出は正治元年(1199年)7月26日。
頼家が御家人・安達景盛(演:新名基浩)の不在中に奪い取った彼の愛妾(劇中では“ゆう”演:大部恵理子)を御所に囲い込み、そこへ出入りを許された一人として名前を連ねています。
続く8月19日、安達景盛を攻めるべく兵を集めるよう命じられますが、この時は尼御台・政子(演:小池栄子)に一喝を食らって断念しました。
若気の至りと言えばあまりにも至り過ぎる残念なデビューですが、鎌倉殿に逆らうだけの気骨はまだ持ち合わせていなかったのでしょう。
やがて頼家が鎌倉を追放されると、第3代鎌倉殿となった源実朝(演:柿澤勇人)にも仕え、寵愛を受けます。
しかし祖父の和田義盛が鎌倉殿を擁する執権・北条義時と対立。建暦3年(1213年)に武力衝突が避けられなくなると、朝盛は和田一族と鎌倉殿の板挟みに。
思い悩んだ朝盛は、出家して俗世の争いから逃れることを決意。4月15日に実朝の元へ別れを告げにいきました。
「一首、献上仕る」
その日はちょうど実朝が好きな和歌の集まりを開いており、そこへ朝盛が見事な句を献じたため一同は感心。
出家の意図を悟った実朝は、朝盛に対して永年の忠義に報いるために数々の地頭職を与えました。出家すればすべて無駄になるとは百も承知で、感謝の気持ちを示さずにいられなかったのでしょう。
別れを告げた朝盛は出家して実阿弥(じつあみ。実は実朝から。又は高円坊)と号し、家にも帰らずそのまま鎌倉を立ち去り上洛していったのでした。
和田の乱・承久の乱
「何だと、三郎が?」
朝盛の出家・上洛を聞いた和田義盛は、息子の和田四郎左衛門尉義直(しろうざゑもんのじょう よしなお)に連れ戻すよう命じます。
「あいつは弓の名手なんだ、この一人でも戦力が欲しい時に抜けられちゃ困る。法体(ほったい。出家した身)でも何でもいいから、とにかく連れ戻せ!」
4月18日、叔父によって連れ戻された朝盛は心ならずも和田一族の将として一軍を率いることに。
「いいか三郎。これは鎌倉殿に弓を引くんじゃねぇ。鎌倉殿を抱え込んで飼い殺しにしている小四郎(義時)のヤツを懲らしめるための戦いなんだ!」
「……はい」
果たして5月2日に挙兵した和田一族。後世に言う「和田合戦(和田の乱)」ですが、果たして三浦義村(演:山本耕史)の裏切りなどもあって5月3日に敗北。朝盛は戦線を離脱、海路で安房国(現:千葉県南部)を目指して逃げ出します。
『吾妻鏡』では祖父や父らと共に討ち取られたことになっている(5月6日条)ものの、伝承によると安房国狭隈郡(現:千葉県鋸南町)の豪族・佐久間家村(さくま いえむら。狭隈家村?)に匿われたとか。
(少なくともその後も『吾妻鏡』に登場するので、この時は事実誤認だったようです)
朝盛は現地で佐久間家に養子入りし、生まれた子供(与六郎)は元服して佐久間家盛(いえもり)と称します。
永らく隠れ潜んでいた朝盛でしたが、やがて承久3年(1221年)に幕府(義時)と朝廷(後鳥羽上皇。演:尾上松也)の武力衝突(承久の乱)が勃発すると、朝廷方に参陣しました。
「(実朝が暗殺されて)源氏将軍が断絶し、もはや北条の傀儡と堕した鎌倉に味方する理由はない!」
しかし嫡男の家盛は幕府方に加わり、親子で相争うことに。果たして幕府が勝利すると、朝盛は行方をくらまします。
およそ6年間どこをどう逃げたのかは不明ですが、嘉禄3年(1227年)6月に生け捕られた朝盛の消息は不明。処刑されたか、あるいは家盛が北条時氏(ときうじ。泰時の子)に従って立てた武功に免じて赦されていて欲しいところです。
終わりに
……又和田新兵衛尉朝盛法師。先日雖搦泄。今日生虜之云云。
※『吾妻鏡』嘉禄3年(1227年)6月14日条【意訳】また、先日搦め泄(もら)した和田新兵衛尉朝盛法師が、今日生け捕られたとか。
かくして歴史の表舞台から姿を消した和田朝盛。その墓は故郷の三浦(神奈川県三浦市初声町下高円坊)にひっそりと佇んでいます。高円坊とは朝盛の法号がそのまま地名になっているとか。
一方の家盛は武功によって上総国夷隅郡(千葉県勝浦市辺り)と尾張国御器所(名古屋市昭和区)に所領を賜り、子孫はそれぞれ移り住んだと言います。
※この尾張に移り住んだ子孫の一人が戦国武将の佐久間信盛(のぶもり)。かの織田信長(おだ のぶなが)に仕えて活躍しましたが、それはまた別のお話し。
以上、和田朝盛の生涯をたどって来ました。果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場するでしょうか。
するとしたら実朝の代になってからと思われますが、その場合は誰がキャスティングされるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 楠戸義昭『戦国 佐久間一族』新人物往来社、2004年3月
- 高橋英樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月
- 田中大喜 編『図説 鎌倉幕府』戎光祥出版、2021年6月
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