……義朝は関東へ落行けるが尾張国の家人長田庄司が所に著て休息し給ひける処に清盛より計策を以長田が心を変ぜしを知給すぞやみやみと討れぬ……
※小瀬道甫『保暦間記』より(読みやすくカタカナを平仮名に直しています)
【意訳】(平治の乱に敗れた)源義朝は関東へ落ち延びる道中、尾張国で家人・長田庄司四郎忠致のもとへ到着、休息していた。しかし忠致は平清盛に内通・心変わりしており、それを知らぬ義朝はあっさり闇討ちされてしまったのであった。
時は平治2年(1160年)1月3日、恩賞に目がくらんで京都から落ち延びてきた主君・源義朝(みなもとの よしとも)を闇討ちした長田忠致(おさだ ただむね)。
主君を、しかも窮地に自分を頼ってきた者を討つとは、武士にあるまじき愚挙……その末路がロクなものでなかろうことは、想像に難くありません。
果たして長田忠致がどんな末路をたどったのか、紹介したいと思います。
そのをはりこそ きかまほしけれ……調子に乗ってべらぼうな要求
さて、改元して永暦元年(1160年)1月23日。源氏の棟梁たる義朝を討ち取った手柄により、忠致は壱岐守に任じられました。しかし、忠致はこの処遇に不満のようです。
「義朝めはかの平将門(たいらの まさかど)や藤原純友(ふじわらの すみとも)にも劣らない豪傑です。もしあの時に東国へ逃がしてしまっていたら、前九年の役における安倍貞任(あべの さだとう)・安倍宗任(むねとう)兄弟以上の難敵となったはずです。
それを未然に防いだ手柄は抜群、壱岐守なんて辺境の国司じゃ割に合いませんよ。そうさな……義朝の所領であった播磨国、その官職であった左馬頭もセットで何とか釣り合うんじゃないでしょうか。あるいはせめて我が地元の美濃・尾張の両国でもいただければと……」
まぁ言うも言ったりべらぼうな要求に、清盛の側近・平家貞(たいらの いえさだ)が激怒しました。
「この野郎!主君と婿(義朝の郎党・鎌田政清)を殺しておきながらいけしゃあしゃあと……できることなら両手足の指を一日一本ずつ切り落とし、最後は首を鋸挽きに斬ってやりたい!」
忠義に篤い家貞にとって、忠致の所業は敵ながら赦しがたいものでしたが、清盛はこれをなだめます。
「まぁまぁ。気持ちは解るが、仮にも内通してくれたこやつを斬ったら、残党掃討の支障となろう。とりあえず聞き逃してやれ。ただし、これ以上の要求は絶対に聞くな!」
かくして、ひとまず壱岐守に妥協して引き下がった忠致。しかし今回の不当な要求によって裏切り者の汚名を上塗りし、また粛清される危険を感じたため京都から逃げ出しました。
おちゆけば 命ばかりは 壱岐の守
そのをはりこそ きかまほしけれ※『平治物語』より
【意訳】逃げ出せば、とりあえず命だけは助かる。しかし逃げ延びた先の尾張国がもらえるのか、それを聞きたいものだ。
どこまでも厚かましい忠致の捨て台詞(落首)に、都びとらは失笑したことでしょう。
武功の恩賞として「みのおわり」を賜る
そんな様子でしたから、尾張国へ帰っても忠致は周囲の者から疎まれ続けました。やがて治承4年(1180年)に伊豆国で義朝の遺児である源頼朝(よりとも)が挙兵。もはや平家政権に与しても先がないと踏んだ忠致は、選ぶに事欠いて頼朝に降伏したと言います。
父親の仇、それも恩義を踏みにじってだまし討ちにしたヤツなんか絶対許さないだろうに……と思ったのですが意外や意外。頼朝は忠致を義朝の仇と百も承知で迎え入れたのでした。
「毒薬も処方一つで命を救う甘露となろう。此度の合戦で武功を立てれば、そなたが所望の美濃・尾張をくれてやろうぞ」
「ははぁ、ありがたき幸せ!」
さて、裏切り者ではありながら忠致の武勇は確かなもので、木曽義仲(きそ よしなか)討伐はもちろん、一ノ谷の合戦でも大活躍だったとか。
「長田殿は、まこと並びなき勇者にございます。向かうところ敵なし、当たって破らぬことがございませぬ」
「……左様か」
果たして屋島の合戦に勝利した頃合いを見て、頼朝は忠致を前線から呼び戻します。
「長田よ、此度の働きは誠に見事である。よってかねて約束しておった褒美をとらせる」
「ははぁ……」
「そなたの望みは『美濃・尾張』であったな。間違いないか?」
「はい!」
「……弥三小次郎」
「は」
頼朝が合図をすると、背後から小野成綱(おの なりつな。弥三小次郎)が忠致を捕らえました。
「これは一体!?」
「そなたは『美濃・尾張』が望みと申したであろう。美濃・尾張⇒みの・おわり⇒身の、終わり……間違ってはおらぬな?」
何と頼朝は、忠致が望んだ美濃・尾張を「身の終わり」すなわち処刑とかけて騙したのです。
「おのれ、卑怯なり!」
「ぬゎぁにが卑怯だこの腐れ外道め、それはそなたに騙し討たれた父上のセリフじゃ!」
「……支度が整ってございます」
「よし、こやつを土磔(つちはりつけ)とせぃ!」
土磔とは地面に板を敷いてそこへ仰向けに磔とする刑罰で、手足を竿に縛りつけてから両手足を釘で打ちつけます。
更にはすべての爪を剥がして顔面の皮も剥ぎ、身体の肉を少しずつ少しずつ切り削いでなぶり殺しにしたとか。
「地獄で父が待っておるぞ。存分に『忠義』を尽くして参れ!」
その武勇だけをさんざん利用された挙句、身の毛もよだつ恐ろしい仕打ちを受けた忠致の最期は、ほかならぬ不義の結果と言えるでしょう。
エピローグ
きらへども 命の程は 壱岐のかみ
美濃尾張をば 今ぞ給はる【意訳】嫌々ながら壱岐守で我慢していた忠致が、今日ようやく(念願の)美濃・尾張を賜った。よかったね!
かりとりし 鎌田が首の むくいにや
かかるうきめを 今は見るらん
鎌田政家【意訳】鎌は刈るものだから、と鎌田の首を狩った報いがこのザマだ!by鎌田政家(殺された政清の別名≒怨霊)
※いずれも『平治物語』より
かくして、念願たる「みのおわり」を賜った長田忠致。その最期は実に凄惨なものでしたが、父を殺された頼朝の怨みがいかに深かったかが察せられます。
なお、忠致には長田景致(かげむね)という息子がおり、父と一緒に処刑されました。親子の仲を引き裂かなかったのは、頼朝なりの心尽くしだったのかも知れませんね。
※参考文献:
- 小瀬道甫『保暦間記』
- 日下力 訳注『平治物語 現代語訳付き』角川ソフィア文庫、2016年12月
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