鎌倉殿の13人

畠山重忠は なぜ謀反人とされたのか? 【北条時政の娘と婚姻した坂東武士の鑑】

畠山重忠とは何者?

畠山重忠は なぜ謀反人とされたのか?

画像:鵯越えで馬を背負う重忠。画:歌川国芳、江戸時代

畠山重忠(はたけやましげただ)とは、どんな人物だったのか。

源頼朝が平氏打倒を掲げた当時は平氏側だったが、上総介広常軍と共に武蔵国(東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市)に入った際、投降し主従関係を結んだ。

彼を表す形容が二つある。

・清廉潔白
・坂東(古い関東呼び名)武者の鑑

重忠は、1190年(建久元年)の頼朝上洛の際には、先陣役を務めている。
御家人たちの誰もが望んだ栄えある役を射止めたのである。

都人が沢山見物するこのパレードの先導役は、見た目の良さも考慮されたと思われ、重忠は容姿端麗だった可能性が高い。

また、画像のように「馬を担いだ」など、大層な怪力の持ち主を示す逸話が少なくない。
このように重忠は、強く、性格も良く、イケメンな武将だったとされているが、それだけではない。

義経の愛妾・静御前が捕まり、鶴岡八幡宮で舞を演じた時、銅拍子を打ち伴奏もしている。
銅拍子とは、シンバルを小型化したような打楽器で打ち合わせて音を出す。

付け焼き刃の技法では、頼朝始め御家人列座する場所で腕前は披露出来ない。
日頃から嗜みがあったのである。

さらに彼は、出自が確かな武士である。
祖先は桓武天皇皇子「高望王」の息子・平良文に行き着く。

良文・息子・忠頼→将常→武基→武綱→秩父平氏の祖となった重綱→重弘→重能→重忠

このように、連綿たる平氏家系を受け継ぐ血筋なのだ。

北条氏とモメた経緯とは?


北条氏と争うきっかけとなったのは、平賀朝雅(ひらがともまさ)の存在だった。

朝雅は河内源氏の流れを汲む御家人で、頼朝から親子に準ずる扱いを受け、北条時政牧氏夫人の娘と婚姻し、娘婿でもあった。

朝雅は、武蔵国の国司(朝廷から派遣された行政・裁判・軍事等を担う職)であった。
重忠は、同国の留守所惣検校職(地方役所監督兼武士団統括職)を頼朝から任されていた。

1193年(建久4年)頼朝は、武蔵国の武士団の小競り合いを国司・朝雅ではなく、重忠に鎮圧を命じたことが「吾妻鏡」に記されている。

つまり、国司だが実力で騒動を抑えられない朝雅に対し、役職は劣るが現地では信頼され一目置かれている重忠という構図が見える。

この状況下、源実朝が正室を迎える酒宴席で、朝雅と重忠の嫡子・重保(しげやす)が激しい口論になった。

周囲が宥めてなんとか場は収まったが、朝雅は根に持ち、牧の方へ告げ口をした。
当然、時政の耳に入り、畠山氏の追い落としが始まったのである。

時政側から見れば、重忠も朝雅と同じ娘婿であった。

先妻の娘は重忠の正室であり、重忠は頼朝亡き後、常に北条側にいてくれた頼もしき味方である。
何故、時政は牧の方の話を一方的に鵜呑みにしてしまったのか?

これは跡取となるはずだった政範(まさのり)の急死も関係していたかもしれない。
十代の早すぎる死は、時政の精神状態に大きな影響を与えたことは確かであろう。

時政はなぜ重忠を誅殺したのか?

畠山重忠は なぜ謀反人とされたのか?

画像:英雄百首より(『源平盛衰記』巻20に見える、八牧(山木)兼隆を討ったときの歌)歌川貞秀 (浮世絵師)作

北条時政が畠山重忠を亡き者としようと画策した背景には何があるのか?

1.娘婿の朝雅に代わり、武蔵国の国司代行に就き、武士団を統括していた重忠と対立した
2.将軍・実朝の執権として力を振るうには、人望がある重忠の力が邪魔だった
3.跡取り息子の政範を失い、動揺と疑心暗鬼で悪い噂に耳を傾けたくなる精神状態だった

以上、3つが考えられる。

1は、土地の権益が絡むだけに一番可能性のある要因である。
土地の権益は武士にとって死活問題だけに、重忠の性格からして黙っていたとは考えにくい。

高潔な彼が、舅の道理に合わぬ行為を見逃すはずはない。
一族郎党を守るためには、彼は一戦すら辞さない覚悟を持ったであろう。

2は、1と連動する。
武士団統括を担う重忠が声を掛ければ、おそらく武蔵国中から兵を集めることが出来た。
それだけのカリスマ姓と人望を備えた重忠を、時政は驚異に感じたであろう。

3は、時政・牧の方夫婦は政範の急死に衝撃を受け、疑念を抱いていたことが考えられる。
当然、政範急死の詳しい情報を、朝雅や他の御家人達に求めたであろう。

朝雅は、彼らからの疑惑を重忠の息子・重保との口論を持ち出す事で逸らしたのではないか。うがった見方をすれば、この様に捉えることも可能だ。
牧の方にとっても、自ら生んだ娘と婚姻した朝雅は息子代わりであり、当然肩入れは激しくなる。

重忠亡き後の畠山氏はどうなったのか?

畠山重忠は なぜ謀反人とされたのか?

画像 : 畠山重忠の最期。月岡芳年筆

1205年(翌元久2年)二俣川の戦いで、畠山重忠は討ち死にする。
それより先に息子・重保も謀殺され、畠山氏は滅んだ。

しかし、畠山家は意外な形で生まれ変わる。

重忠の正室だった時政の娘は、畠山氏本領を相続し、足利義純の後妻に入った。
そして義純は足利氏から源姓に代わり、畠山氏を継いだのである。
畠山家は、重忠の名声のせいか名門扱いされ、宗家から高い序列に扱われた。

その後、畠山家は家督相続争いや内紛で争いが絶えなかったが、江戸時代には儀式や典礼役「高家」として尾州畠山家と能登畠山家が残った。

明治時代になると、尾州畠山家は足利家へ姓を戻したが、能登畠山家はそのまま存続している。

終わりに

頼朝の死は、鎌倉幕府内に大きな権力空白を生じさせた。

二代将軍・頼家の後見役だった比企氏や側近・梶原景時が、空白を埋めようとしたが失敗した。
時政は、比企氏や梶原景時を退け、この権力を手に入れようと画策した。

時政は頼家を隠居させ、娘が乳母であった実朝を三代将軍に据えてからは益々調子に乗った。
この時、時政のストッパー役は不在だった。政子は静観し義時は父に従っていたのである。

彼らが動いた時期は、畠山重忠が打ち取られて御家人たちに動揺が広がり、三代将軍・実朝が危うい状況になってからだ。

政子や義時が権力のバランスを考え、時政の暴走をもう少し早く抑えていれば、坂東の英雄・重忠を失うことはなかったかもしれない。

参考図書
その後の東国武士団 源平合戦以後」関 幸彦 著作
鎌倉の時代」 福田豊彦 関幸彦 [編]

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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