「当たらなければどうということはない」
当たり前のことですが、どれほど強力な攻撃であろうと、それは自分の身体に当たって初めてダメージとなります。
だから当たらなければどうということはない……確かにそうなのですが、実際には少なからず当たってしまうものです。
そこで人類は防具を身にまとって戦うのですが、中には防具なしで戦わざるを得ない者もいました。
まぁ、敵の攻撃が当たらなければどうということはないのですが……今回は『吾妻鏡』より、下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)の武勇伝を紹介したいと思います。
鎧を売って、小舟を買った理由は?
時は元暦2年(1185年)1月26日。平家討伐で中国地方へ遠征していた行平たちの元へ、軍船と兵糧の差し入れがありました。
「やった、これで九州へ渡れる!」
それまで軍船の手配が遅れ、兵糧も尽きて士気もだだ下がり。侍所別当の和田義盛(わだ よしもり)なんかは「腹減った、もう鎌倉に帰る!」なんて駄々をこねていたくらいです。
もうダメだ、おしまいだ……総大将の源範頼(みなもとの のりより)が頭を抱えていたところへ、今回の差し入れ。まさに天の恵みでした。
「いやぁ良かった良かった……ん?」
いざ出航という段に及んで、行平たちの一隊だけは誰も鎧を着ていません。
「下河辺殿、鎧はいかがなされた?」
何事かと訊ねた御家人に対して、行平は答えて言います。
「あぁ、売っちまったんだよ」
聞けば兵糧の調達や、小舟を買い集める資金に使ってしまったとのこと。
「どうしてそんなことを?兵糧はともかく、小舟なんか何に使うのですか」
「知れたこと。みんなと同じ船に乗ってたんじゃ、一番乗りは果たせない。だから船足が速くて小回りの利くコイツらを買ったのさ」
他人と同じことをしていては、他人以上の成功は望めない。身命を惜しまず功名を追い求める坂東武者らしい心意気です。
「しかし、それで鎧を売ってしまったら、身の守りはどうなされるおつもりか?矢に討たれては本末転倒であろう」
その心配はもっともですが、リスクをとらずにリターンを狙おうなんて甘い考えを、下河辺行平は許しません。
「当たらなきゃいいんだよ」
「もし当たってしまったら?」
「そん時ゃ、鎧を着てたって死ぬだろうよ」
いや、少しでもダメージを和らげるために……とは言え、今さら予備の鎧がある訳でもなし、行平の部隊は意気揚々と漕ぎ出して行ったのでした。
果敢に敵前上陸を敢行!行平も大活躍
……行平者。粮盡而雖失度。投甲冑買取小舩。最前棹。人恠云。着甲冑。令參大將軍御舩。全身可向戰塲歟。行平云。於身命者。本自不爲惜之。然者雖不着甲冑。乘于自身進退之舩。先登欲任意……
※『吾妻鏡』元暦2年(1185年)1月26日条
果たして出航した行平たちは2月1日に九州は豊後国(現:大分県)へ敵前上陸を果たしました。
周防国(現:山口県)から豊後国までなら、人力でも5日間(当時の太陰暦はすべての月が30日)はかからなそうですが、実際には潮の流れや敵の警戒態勢など駆け引きがあったのでしょうね。
「野郎ども、かかれ!」
「「「よっしゃあ!」」」
さぁ始まりました。平家方の大将は太宰少弐こと原田種直(はらだ たねなお)父子。一番乗りを目指して殺到するのは、行平のほか北条義時(ほうじょう よしとき。小四郎)・渋谷重国(しぶや しげくに。庄司)・品河清実(しながわ きよざね。三郎)。
「我らは渋谷殿と援護する!小四郎と三郎は一気にかかれ!」
「「承知!」」
行平は渋谷重国と連携して矢を射かけ、敵が怯んだ隙を衝いて北条・品河の両勢が敵陣を制圧。行平は原田種直の弟・美気三郎敦種(みけ さぶろうあつたね)を射止める殊勲を上げています。
「行平は日本無双の弓取りぞ」感激する源頼朝
參州渡豊後國。北條小四郎。下河邊庄司。澁谷庄司。品河三郎等令先登。而今日。於葦屋浦。太宰少貳種直。子息賀摩兵衛尉等。引随兵相逢之挑戰。行平重國等廻懸射之。彼輩雖攻戰。爲重國被射畢。行平誅美氣三郎敦種云々。
※『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月1日条
かくして九州への敵前上陸を果たした行平たち。その後一進一退の末に基盤を固めて平家の退路を断ち、壇ノ浦の最終決戦(3月24日)に向けて舞台を整える役割を果たしました。
ちなみに、このエピソードには後日談があります。8月24日に鎌倉へ凱旋した行平が、帰り道中に「手ぶらで帰るのも何だから」とお土産を物色したところ、大層な名弓を買うことに。
しかしおカネがないので、ちょうど二枚着ていた小袖のうち一着を売って名弓を求めたのでした。
季節もちょうど暑かったし、服なら帰れば何とでもなる……こうしてほとんどの持ち物を使い果たした行平。
その甲斐あって名弓を献上されて源頼朝(よりとも)は大喜び、大いに面目を施したということです。
……二品具令聞之給。浮感涙喜其志給。仰曰。行平。日本無雙弓取也。見知宜弓之條。不可過汝之眼。然者可爲重寳者。則召廣澤三郎令張之。自引試給。殊相叶御意之由被仰。直賜御盃於行平……
※『吾妻鏡』文治元年(1185年。元暦より改元)8月24日条
【意訳】頼朝は行平の話を聞き、感動の涙を浮かべながら「そなたこそ日本無双の弓取り。その目利きは誰もかなうまい」とコメント。廣澤三郎(ひろさわ さぶろう)に命じて弓に弦を張らせ、頼朝自ら試し引きした。「実に素晴らしい!」そこで行平へ直々に盃をとらせたのであった。
身命を惜しまぬ方向が実り、御家人として絶大な栄誉を勝ち取った下河辺行平。リスクなくしてリターンなし。その心意気は坂東人の誇りとして後世に伝えられています。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 2 平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
- 羽生飛鳥『『吾妻鏡』にみる ここがヘンだよ!鎌倉武士』PHP研究所、2022年9月
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