和歌は世のあるべき姿を描き、天下万民を治める為政の具である一方、四季折々に花鳥風月の趣を楽しみ日々を彩るものでもありました。
こよなく和歌を愛した鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)は、短い生涯において多くの和歌を詠んだ実朝は作品をまとめ、それが『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』として現代に伝わっています。
キンカイと聞くとついGOLD(金塊)を連想してしまいますが、金とは鎌倉の略(鎌の金へん)、槐はよく見ると「えんじゅ」すなわち槐門(大臣)のこと。要するに「鎌倉の大臣(右大臣・実朝)による歌集」という意味です。
そこには663首(貞享本では719首)の和歌が収録されており、今回はその中から各テーマ(春・夏・秋・冬・賀・恋・旅・雑)からおススメを一首ずつ紹介したいと思います。
目次
春1番「今朝見れば……」
けさみれは やまもかすみて ひさかたの
あまのはらより はるはきにけり※『金槐和歌集』より(春・1番。数字は全体の通し番号)
今朝見れば 山も霞みて 久方の
天の原より 春は来にけり
【意訳】今朝、山を見たら霞がかかっており、天の彼方より春が来たのだ。
「ひさかた」の解釈には諸説あり、太陽の差す方向(陽射方)や、永遠なる天上世界(天空を示す単語にかかる言葉。久方、久堅)などとも言われます。
大河ドラマでは実朝が三善康信(演:小林隆)にレクチャーを受けていたのが、この歌でしたね。
康信は「ひっくり返した方が奥ゆかしいのではないか」と言っていましたが、確かに「ひさかたの やまもかすみて けさみれは……」の方が趣を感じます。
ただし「ひさかた」が空(あまのはら)にかからなく(かかりが弱く?)なってしまうので、技巧的には劣るようです。
でも、筆者も康信の方(アレンジ)が好き。きっと実朝も、そう思ったことでしょう。
夏131番「五月雨の……」
さみたれの つゆもまたひぬ おくやまの
まきのはかくれ なくほとときす※『金槐和歌集』より(夏・131番)
五月雨の 露もまだ乾(ひ)ぬ 奥山の
槇の葉隠れ 啼く杜鵑
【意訳】五月雨に濡れたままの奥山で、槇の葉に隠れながら、杜鵑が啼いている。
雨上がりの山奥。しっとりとした空気に、杜鵑の啼き声が響き渡る情景が目に浮かぶようです。
実朝が実際に聞いたのか、あるいは想像で詠んだのでしょうか。『吾妻鏡』にも鳥の声を聴くために夜明け前から御家人たちと出かけたエピソードが伝わっており(残念ながらこの時は不発)、自然を愛していたことがわかります。
秋209番「須磨の海女の……」
すまのあまの そてふきかへす しほかせに
うらみてふくる あきのよのつき※『金槐和歌集』より(秋・209番)
須磨の海女の 袖吹き返す 潮風に
うらみてふくる 秋の夜の月
【意訳】須磨の浜辺に吹く潮風が、海女たちの袖をゆらし、月を膨らませる。
「うらみてふくる」は「恨みて膨れる」「浦見て吹くる」をかけています。須磨の海女とは、かつてこの地へ流された在原行平(ありわらの ゆきひら)に恋した松風(まつかぜ)・村雨(むらさめ)姉妹のこと。
彼女たちは元々「もしほ(藻塩)」と「こふじ(小藤)」という名前だったところ「オシャレな名前をつけてあげよう」と行平に改名してもらいました。
やがて赦された行平は都へ帰る際「きっと迎えに来るよ」と約束したものの、結局二度と訪れなかったと言います。
この歌は生涯待ち(放置され)続けた彼女たちの怨みを偲んで詠まれたのでした。
冬318番「我が庵は……」
わかいほは よしののおくの ふゆこもり
ゆきふりつみて とふひともなし
※『金槐和歌集』より(夏・318番)
我が庵(いお)は 吉野の奥の 冬籠り
雪降り積みて 訪う人もなし
【意訳】私の家は吉野の山奥。冬ごもり中、雪が降り積もって来客もいない。
実に寂しく寒々しい光景ですが、もしかしたら周囲に対して心を閉ざしていたのかも知れません。
でも、誰も来てくれなくて寂しい。「とふひともなし」というフレーズにそんな思いがにじみ出ているようです。
寂しいなら自分から行けばいいのだけど、一歩を踏み出す勇気もなかなか湧いて来ない。多感な実朝の孤独が偲ばれます。
賀344番「千々の春……」
ちちのはる よろつのあきに なからへて
はなとつきとを きみそみるへき※『金槐和歌集』より(賀・344番)
千々の春 万の秋に 永らえて
花と月とを 君ぞ見るべき
【意訳】あなたには、千の春と万の秋を生き永らえ、花と月を末永く愛で続けて欲しい。
いつまでも長生きして、花鳥風月を楽しんで(幸せに暮らして)下さい。ここで言う君とは日ごろ敬慕していた後鳥羽上皇(演:尾上松也)だけでなく、広く「大事な人」一般を指すと見ていいでしょう。
賀とは謹賀新年のように「よろこび・ことほぐ」意味で、またそうあるように願う気持ちがテーマです。
皆さんも、大切な方へこの和歌を贈ってみるのはどうでしょうか。
恋362番「春霞……」
はるかすみ たつたのやまの さくらはな
おほつかなきを しるひとのなき※『金槐和歌集』より(恋・362番)
春霞 龍田の山の 桜花
覚束なきを 知る人のなき
【意訳】龍田山に咲き誇る桜が春霞で見えず、もどかしい。そんな私の思いを知ることなく、あなたは散っていくのでしょうね。
大河ドラマでは源仲章(演:生田斗真)が「(疱瘡に)病みやつれた姿を見られたくない(龍田山の桜が主体)」と解釈していました。
もっとハッキリとあなたを見たい。思いを知って欲しいと願いながら、きっと一生届かないであろう悲しみが詠まれています。
ちなみに劇中だと北条泰時(演:坂口健太郎)への恋慕を詠んだ歌とされていますが、それを裏づける史料はありません(寡聞にして存じませんが、もしご存じの方がいらっしゃればご教示ください)。
旅526番「春雨に……」
はるさめに うちそほちつつ あしひきの
やまちゆくらむ やまひとやたれ※『金槐和歌集』より(旅・526番)
春雨に 打ちそぼちつつ あしびきの
山路行くらむ 山人や誰
【意訳】春雨でずぶぬれになりながら山路をゆく、あの人は誰だろう。
打ちそぼちつつも山路を歩き続けるあの人は、果たしてトボトボ歩いているのか、それともしっかりと歩いているのでしょうか。恐らく後者なんじゃないかと思います。
雨にも負けず、風にも負けない強い信念をもって前進する姿は、きっと実朝の憧れを表しているのでしょう。
そういう者に、私もなりたい。鎌倉殿としてあるべき姿を模索し続けた実朝の葛藤が偲ばれます。
雑594番「世の中は……」
よのなかは つねにもかもな なきさこく
あまのをふねの つなてかなしも※『金槐和歌集』より(雑・594番)
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ
海士の小舟の 綱手かなしも
【意訳】こんな無常の世にあっても、渚で小舟を引く綱手のように、平和な日々が変わらず続いて欲しいものだ。
綱手は陸へ舟を引き上げるために綱を引く者。漁が終わって無事に帰ってきた光景を、変わらぬ平和に喩えています。
「行ってきます」と言った者が、当たり前に「ただいま」と帰って来られる日常の、なんて儚く尊いことか。
これまで多くの骸を必要とした鎌倉。その頂点に立つ者として、安寧の世を築き上げる思いが偲ばれます。
藤原定家(ふじわらの ていか)が選出した「小倉百人一首」では鎌倉右大臣という名前でこの和歌が載っていますから、かるた遊びの際には思い出してあげて下さいね。
終わりに
以上、実朝の歌集『金槐和歌集』から各テーマのおススメを紹介してきました。他にもたくさんあるので、もしよかったら読んでみてお気に入りの一首を探すと楽しいですよ。
またNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではまだまだ活躍する実朝が、これからどんな(あるいは、どの)和歌を披露してくれるのか、楽しみにしています。
※参考文献:
- 樋口芳麻呂『新潮日本古典集成 金槐和歌集』新潮社、2016年10月
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