源頼朝(みなもとの よりとも)の男児と言うと、北条政子(ほうじょう まさこ)との間にもうけた嫡男の源頼家(よりいえ)・源実朝(さねとも)をまず思い浮かべるでしょう。
あるいは政子と結婚する前に八重姫(やえひめ。伊東祐親の娘)との間にもうけた千鶴丸(せんつるまる。千鶴御前)を思い出すかも知れません。
この千鶴丸、頼朝が八重姫と密通して祐親の留守中にもうけたのですが、帰って来た祐親によって殺されてしまいました。
しかし文献によっては千鶴丸が生きていたとするものもあり、今回は『系図纂要』から千鶴丸の生存伝承を紹介したいと思います。
さすが頼朝の子?恩人の娘に夜這いをかける
忠頼
右大将頼朝之男
母万幸御前 伊東入道祐親女
千鶴丸 式部大輔○岩崎記之頼朝之竊通伊東入道女産一男子称字春若入道自京師帰時生三歳入道怒使与藤五与藤六兄弟令沈于伊東淵兄弟恰密械之曽我祐信及頼朝之治世之時到信州善光寺令謁見浦陸奥和賀郡主枝以石畳紋立合雲紋春若後称号多田式部大夫忠頼建久九年□奥州十月発鎌倉到奥州苅田宮小田嶋邸會大雪滞留数日竊通邸主平右衛門女生男子 明年忠頼患痘卒于苅田宮之□
※『系図纂要 清和源氏 一』より
※□は判読不能、他の文字も参考程度に願います。【意訳】
源忠頼(みなもとの ただより)
源頼朝の子で、母は伊東祐親(いとう すけちか)入道の娘・万幸御前(ばんこうごぜん)。
幼名は千鶴丸、後に式部大輔の官職を受ける。
頼朝は伊東入道の娘と密通して生まれた男児に春若(はるわか)と名づけた。やがて伊東入道が帰ってくると春若(この時3歳)を殺すよう藤五(とうご)と藤六(とうろく)に命じる。
しかし気の毒に思った兄弟は密かに春若を曽我祐信(そが すけのぶ)に預け、やがて頼朝が立身出世を果たすと信州善光寺で再会を果たす。やがて陸奥国和賀郡(現:岩手県北上市辺り)に所領を与えられ、多田式部大輔忠頼(ただ しきぶのたいふただより)と名乗った。(多田の苗字は何に由来?情報求む)
建久9年(1198年)に鎌倉を出発。道中で苅田平右衛門(かりた へいゑもん)の娘と通じて男児をもうけるも、翌建久10年(1199年)天然痘を患い、そのまま現地で亡くなった。
……とのこと。曽我祐信と言えば曽我兄弟、かつて工藤祐経(くどう すけつね)に殺された河津祐泰(かわづ すけやす。伊東祐親の長男)の未亡人を娶り、遺児・一萬丸(いちまんまる。曽我祐成)と筥王丸(はこおうまる。曽我時致)を育てました。
恐らくこの伝承は兄弟の仇討ち『曽我物語』がベースになっているのでしょう。子供を預けるなら曽我殿に……千鶴丸(春若)と曽我兄弟が一緒に育っていたらと思うと楽しいですね。
それと、領国へ赴任する道中で邸主の娘と密通(竊通)してしまうあたり、確かに頼朝の子供なんだなと実感します。
道中で命を落とした多田忠頼ですが、その遺児は成長して和賀郡に赴任。以来和賀を名乗ったのでした。
江戸時代まで続く千鶴丸の子孫たち
【和賀氏略系図】
源頼朝-多田忠頼(千鶴丸、春若)-和賀忠実(ただざね)-和賀忠兼(ただかね)-和賀宗忠(むねただ)-和賀宗義(むねよし)-和賀義維(よしこれ)-和賀義達(よしたつ)-和賀義周(よしちか)-和賀義弼(よしすけ)-和賀義篤(よしあつ)-和賀義翁(よしとし)-和賀義彌(よしひさ)-和賀義一(よしかつ)-和賀義忠(よしただ)-和賀義武(よしたけ)-和賀義趣(よしとし)
※直系のみ(必ずしも嫡流ではなく、最も長く続いた系統を採用)。
※読み方には諸説あります。
せっかくなので、忠実以下の略歴も駆け足で紹介しましょう。
和賀忠実
別名は忠明。多田式部大夫、15歳の時に源実朝に謁見し、元久2年(1205年)に奥州へ戻りました。
和賀忠兼
生年不詳、建長2年(1250年)に亡くなっています。
和賀宗忠
通称は三郎。文永11年(1274年)に没しました。
和賀宗義
通称は和賀多田太郎。永仁年間(1293~1299年)に亡くなったといいます。
和賀義維
通称は和賀多田三郎。元亨3年(1323年)に世を去りました。
和賀義達
通称は和賀多田三郎太郎(長ッ!)。貞和年間(1345~1350年)没、貞和は北朝で使われた元号なので、そっちに属したものと思われます。
和賀義周
通称は和賀四郎、多田佐渡守の官職を得ていました。嘉慶3年(1389年)没。
和賀義弼
通称は和賀多田大和守。応永31年(1424年)8月19日に亡くなったことが記録されています。
和賀義篤
通称は和賀多田大和守。名乗りを父から継承したんですね。文安元年(1444年)9月11日に亡くなりました。
和賀義翁
通称は和賀多田中務大輔(~なかつかさたいふ)。父の死によって家督を嗣ぎ、文明9年(1477年)に世を去っています。
和賀義彌
通称は和賀四郎。文亀元年(1501年)に没しました。
和賀義一
通称は和賀一郎。これ以外の情報が一切なく、生没年ともに不詳です。
和賀義忠
通称は和賀多田薩摩守。天正19年(1591年)に討死しています。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の奥州仕置に反発して前年より一揆を起こし、失敗したのでした(和賀稗貫一揆)。
和賀義武
通称は和賀又四郎。主馬助の官職を称しました。慶長6年(1601年)8月に作乱(錯乱)して討たれたと言います。
和賀義趣
通称は和賀太郎。情報はそれだけです。
終わりに
……以上、ごく駆け足で千鶴丸の末裔・和賀氏の系図をたどってきました。
さすがに無理がありそうな気もしますが、その可能性を信じたいロマンも解ります。
今も生きている和賀さんたちは、頼朝公の血脈と誇りを、次世代に受け継いでいかれることでしょうね。
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要 清和源氏 一』国立公文書館デジタルアーカイブ
多田式部大輔忠頼(ただ しきぶのたいふただより)と名乗った。(多田の苗字は何に由来?情報求む)
多田の苗字の由来は、多田院が関係してると考えます。
多田神社は天禄元年(970)年に創建され、元多田院とも
多田大権現社とも言われる清和源氏発祥の地として
有名な神社です。
元々は天台宗の寺院として建立されましたが、
明治4年の神仏分離令により仏舎が廃され
「多田神社」となりました。
御祭神は、第56代清和天皇の曾孫源満仲を始め、
源頼光、源頼信、源頼義、源義家の五公を
お祀りしています。
多田神社の紋は笹竜胆
頼朝以降の源氏に使われる家紋は笹竜胆
和賀郡(東和町)の多田姓の家紋も笹竜胆です。
私の父が東和町で1番古い南武曲がり家(厩と住居が一緒)で生まれ育ちました。
多田家の家紋は笹竜胆です。