室町時代

【名前を書くと死亡】 室町時代に実在したデスノート 「名を籠める呪詛」とは

室町時代の日本には、「名前を書くことで相手を呪い殺す」というデスノートのような呪詛が実際に存在し、人々から恐れられていた。

それは「名を籠める : こめる」と呼ばれ、寺に反抗的な人物の名前を紙片に記入し、寺内の堂に納めて、その人物を呪詛するという制裁であった。

名前で呪う

文明18年(1486)3月、仲川荘(現・奈良市)という荘園(貴族や大寺社などの所有地)の年貢を、地元の武士の箸尾為国(はしおためくに)という男が横領した。

「名を籠める呪詛」とは

画像 : 興福寺東金堂(国宝) wiki c 663highland

この年貢は本来、荘園領主である興福寺に納められ、唯識講という仏事の費用のための重要な資金源であった。それを横領されると仏事が開催出来なくなってしまう。

困った興福寺の僧侶達は抗議したが、箸尾は強硬な態度であり、年貢を納入させることは困難であった。

そこで興福寺の僧侶達は「名を籠める」ことを決行したのである。

方法は以下である。

紙片に罪状と名前と日付けを記入し、それを包み紙にくるんで仏前に捧げ、その身に災厄が降りかかることを祈る

箸尾の名前は興福寺の五社七堂に籠められ、寺僧達は大勢で読経し彼を呪った。

この時の箸尾は悪びれることもなく、寺の悪口まで吐く始末であったという。

それが翌4月になると、箸尾が支配する村で「悪病」が流行し、130人の人々が続々と死んでいった。箸尾の手下である村の代官も妻女とともに病に伏せってしまったのである。

箸尾自身は死ななかったようであるが、名を籠めたことによる効果だと恐れられたという。

最終兵器

「名を籠める呪詛」とは

イメージ画像 : 読経 illustAC acworks

この制裁は興福寺を蔑ろにする者に対して、度々発動されていた。

文明17年(1485)の正月には、平清水三川という者が死亡した。この男は興福寺の大乗院門跡の所領を不法占拠したとして、五社七堂に名を籠められたのである。

このため彼の死は「御罰」が下ったものとして多くの人々に認識された。

天正6年(1578)8月には興福寺への「悪逆」の罪で1人の男の名が籠められた。男には2人の息子がいたが、1人は「癩病(ハンセン病。不治の病とされ、また差別の対象であった)」に罹患し、もう1人は「狂気」となってしまったという。

この時のことを日記に記した興福寺の寺僧は「仏罰がくだった!」と呪力の効果に歓喜している。

大和国勾田荘(現・天理市)の年貢2年分と運送料を横領した豊田猶若という者も名を籠められたが、明応8年(1499)12月に謝罪して横領分を弁償することで、名前を堂内から取り出してもらうことを許してもらったという。

このように「名を籠める」習俗は寺僧達はもちろん、領民達にまでその効果が強く信じられ、宗教的制裁としてその威力を発揮していた。

鎌倉〜室町時代というと幕府に集った武士達の「武力」の印象が強いが、当時の僧侶や神官達による「呪力」も、当時の人々を震撼させる巨大な力とされていたのである。

場合によっては死後に「無間地獄」に落とされるとまで言われた呪詛の力は「最終兵器」であり、戦慄の対象だったのだ。

呪詛に屈した悪

「名を籠める呪詛」とは

画像 : 朝倉孝景 wiki c

室町後期の越前国の大名・朝倉孝景(あさくらたかかげ)は、もとは越前国守護である斯波氏(しばし)の家老の1人であったが、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返るということを演じて戦局を一転させ、その功績で越前国の守護職を手に入れた男であった。

そして手に入れた領国内に「朝倉孝景条々」という分国法を制定し、「最初の戦国大名」とも評された人物である。

目的のためには手段を選ばなかった孝景は、領内の寺社などの荘園の管理役としての代官職を手に入れると、次々と荘園年貢を横領した。興福寺も越前国内に河口・坪江荘という大きな荘園を持っており、孝景の専横に頭を痛めていた。

寛正5年(1464)5月、孝景は興福寺領河口荘のうち、自身の意志に従わない細呂宜郷(現・福井県あわら市)の村を焼き討ちしてしまった。

それ以前からの不当行為も重なっていたことで、ついに興福寺は事の次第を室町幕府に訴えるが、幕府も孝景には強く出れず訴訟は進展しなかった。

そこで興福寺は、孝景の名を籠めることとした。

同年6月24日、彼の名前を記した紙片は寺内の修正手水所の釜のなかに納められ、呪詛が開始された。

さすがの孝景も呪詛を恐れ、興福寺で隠然たる力を持っていた安位寺経覚という大物に泣きつき、制裁の解除を求めたという。

孝景と元々交流のあった経覚は、孝景に「2度とこのようなことはしない、と記した起請文を提出すれば、罪を赦してやる」と提案した。

8月10日、京都の二条家の屋敷に孝景は出頭し、経覚や寺の僧達に「今後、興福寺をなおざりにすることはせず、忠節を尽くします」という起請文を提出し、文書に署判を据えてこれまでのことを謝罪したのである。

呪詛時代の終わり

しかし孝景は、彼なりに「名を籠める呪詛」に対する対抗策も行っていた。

もともと孝景は「敏景 : としかげ」と名乗っていたが、長禄元年(1457)7月〜同3年11月の間に「教景 : のりかげ」と改名しており、この事件の時も「教景」と名乗っていた。

6月24日に名を籠められた時は「教景」という名前に呪詛が行われた。それから1ヶ月余り後の8月10日に謝罪した時には「孝景 : たかかげ」と記録されている。

つまり呪詛をうけた後の1〜2ヶ月の間に、彼は名前を「教景」から「孝景」に改名したのである。
孝景は周りの人々が思いつかないような裏技で、呪詛を無効にしようと考えたのだ。

しかし孝景はその後、それまで以上に荘園の侵犯を派手に展開し、謝罪を完全に反故にしてしまったという。

もちろん呪詛を避けるために改名したり謝罪の手続きを踏んだりしたことから、孝景にも呪詛を恐れる気持ちはあったと考えられる。しかし時代が進むにつれ、呪詛を合理的に回避しようとする人々が少しずつ現れてきた。

そもそも「名を籠める呪詛」は古い時代から伝わったものではないようで、領民に対する呪詛の事例は室町時代以前にはあまり見られていない。
中世の後期に入り、宗教領主の命令に従わない百姓や武士達が続出する中で、活用されるようになったと考えられている。

「名を籠める呪詛」とは、当時の人々の信仰心が薄れ、支配を継続するために恫喝的な手段を使わざるを得なかった宗教勢力の焦りを示しているとも言える。

現代の視点からだと「呪詛」は非科学的なものでしかないが、当時の人々にとって脅威であったのは確かである。

参考文献

室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界 (新潮社)

 

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