前編では高師直(こうのもろなお)が、室町幕府随一の最強武将だったことを解説した。
後編では足利尊氏の弟・直義(ただよし)との対立について掘り下げていきたい。
巨大な権力「執事施行状の発行の権限」を得る
師直は巨大な権力を握ることになるが、「太平記」や後世の創作において師直は、卑小な好色家で傍若無人な人物として描かれている。
同僚である塩冶高貞の妻に横恋慕し、謀反の罪を着せてその妻を奪おうとしたことや、「天皇が必要ならば木か金物で人形を作り、生身の天皇や上皇は遠くに流してしまえ」と言い放ったとされている。(※実際には言っていない)
当時、他に比類のないほどの戦功をあげた師直が、なぜここまで貶められたのだろうか?
これは、源氏の氏神が祀られている石清水八幡宮を始めとした聖域を焼き討ちしたことで、公家や僧侶たちから痛烈に批判されたことが大きな要因とされている。
しかし、師直が焼き討ちした理由はあくまで戦略的な理由であり、公人としての要請に迫られた苦渋の決断だったのである。
さらに、一時的ではあったが巨大な権力を手中にしたことも一因といえよう。
師直は、武将たちから支持を得られる仕組みを作っていた。
将軍・足利尊氏が武士に恩賞を与えるという下文、つまり恩賞を与えるという書類であるが、この書類だけでは執行力を伴わなかった。
実は鎌倉幕府時代から、武士が将軍から恩賞を与えられても、それは書類上のことに留まっていた。
例えば、与えられた土地を占拠している者がいたとしても、幕府は何もしてくれないのだ。
つまり、権利を得ても抵抗する者がいれば、自力で相手を追い出して土地を手に入れなければならなかったのである。
師直は、その問題を解決する方法を考案したのだ。
それが「執事施行状(しつじしぎょうじょう)」である。
その宛先は恩賞として与えた土地の守護である。つまり土地受け渡しの手続きが正しく行われるように各国の守護に命じる行政文書であった。
師直は「武力による土地の実効支配を、当人に代わって守護が行う」という画期的なシステムを導入し、その文書の発給を一手に握ったのである。
師直から執事施行状を貰えなければ、恩賞が貰えなくなる。
その為、武士たちは普段から師直と良好な関係を築いていかなければならなかった。
これによって武士たちは師直に頭が上がらなくなり、政治力と権威が一気に上昇したのである。
足利直義との対立と、観応の擾乱
しかし、師直への権力一極集中を面白く思わない男がいた。
それは、将軍・尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)である。
直義は幕府のNo.2で、行政や幕府運営を取り仕切る総責任者の立場にあった為、師直のことを快く思っていなかったのだ。
こうして2人の対立は、誰の目にも明らかになっていった。
そして、直義はついに師直排除を実行に移す。
1349年6月、直義は師直暗殺を計画し、自らの屋敷に師直を招いた。
しかし、その場に居合わせた武将の目配せから危険を悟った師直は危うい所で脱出し、暗殺は失敗に終わった。(※太平記)
実は、2人の対立の背景には「もう1つの理由」があったと考えられる。
それは、尊氏の後継者問題であった。
この頃、尊氏の嫡男・足利義詮(あしかがよしあきら)が、鎌倉で東国の統治を担っていた。
師直は、義詮を尊氏の後継者にと考えていた。
尊氏にはもう1人の男子・足利直冬(あしかがただふゆ)がいたが、直冬は直義の養子になっていた。
師直暗殺未遂事件の3か月前に、直義は養子・直冬を長門探題に就任させて中国地方8か国の統治権を与えていた。
直義は鎌倉にいた義詮と同じ位の力を直冬に与え、2人で競い合わせ、どちらか優秀な者を足利家の後継者にしようと考えていた。
直義からすれば、幕府に貢献した師直のことを認めてはいたが、家来(家人)である師直に、足利家の後継者問題の口出しをされたくなかったのである。
その後、師直は執事を解任された。
それは直義が、師直の悪行の数々を挙げて糾弾し、尊氏に直談判した結果だった。
こうして師直が発給していた執事施行状は、今度は直義が発給するようになった。
2人の有力後継者が並び立ったことで、2人の意志を越えて問題が大きくなってしまったのである。
1349年8月、直義に権限を奪われた師直は武力行使に踏み切り、5万騎もの大軍を集めて直義の邸宅を襲撃しようとした。
慌てた直義は兄・尊氏の邸宅に逃げ込んだ。
翌日、師直軍は尊氏邸を包囲、直義を引き渡すように要求した。
これは後に「御所巻」と呼ばれるデモンストレーションであった。
驚いた尊氏は師直と交渉し、その結果、直義は出家して政務を退き、直義の腹心・上杉重能と畠山直宗たちは流罪となった。
しかしその後、この流罪となった者たちは、師直の密命によって殺害されてしまったのである。
こうして師直は、再び執事に復帰を果たすことになった。
この一連の、尊氏をも巻き込んだ直義派と、師直派の戦乱は「観応の擾乱 : かんのうのじょうらん」と呼ばれる。
足利直義の反撃
翌年、足利直冬が勢力を拡大し、京に攻め上がるという噂が広がった。
幕府は師直の弟・師泰(もろやす)を大将に討伐軍を派遣したが、直冬軍に敗北してしまう。
尊氏は師直と共に、直冬討伐のために九州遠征を行なうことにした。
しかし出陣の2日前、「出家していた直義が京を脱出する」という思わぬ事態が発生した。
これを聞いた師直派の武将たちは「九州征伐を延期し、すぐに直義を捕縛すべし」と進言した。
ここで、師直は考えた。
「幕府の中には直義に心を寄せる者が多くいるから、ここは直義の捕縛を優先した方がいいのか?」
「それとも目の前の脅威である、直冬を討伐すべきではないだろうか?直冬の影響力は、中国から九州へと拡大している。今ここで討っておかないと、取り返しのつかないことになるのではないか?」
師直は、究極の選択を迫られたのである。
師直の決断
師直は悩み抜いた末に、予定通りに直冬討伐を行なうことを決断した。
しかし、逃走した直義は師直討伐を全国に呼び掛けると共に、誰もが想像もしなかった策を取った。
何と直義は、長年敵対してきた南朝に降伏し、「義兵を挙げて北朝方を成敗せよ」との綸旨を得る、大技に出たのだ。
すると、各地の武士たちは次々と直義に呼応したのである。中には尊氏派の武将までいたという。
なぜ、多くの武士たちが直義についたのか?
その最大の原因は、直義が南朝と講和したことだった。
南朝は、当時においても非常に大きな権威があった。
建武時代に後醍醐天皇から恩賞や官位を賜り、感謝していた武士が多くいたのである。
師直の最期
この予想もしなかった事態の急変に驚いた尊氏と師直は、急いで京にとって返した。
しかし、直義派の軍勢の方が先に京に入り、尊氏派や師直派の邸宅が次々と焼かれてしまった。
尊氏・師直軍も1度は京に入ったが、直義軍の前に撤退する羽目になり、しかも寝返りも相次ぎ、軍勢はたったの500騎にまで減ってしまった。
摂津国打出浜で両軍は最後の決戦に突入したが、尊氏・師直軍は直義軍に圧倒され、師直も弟と共に深手を負い、ついに尊氏は直義に降伏した。
尊氏は、師直兄弟を殺さずに出家させることを求め、和議が成立した。
しかし、師直は京に護送される途中、かつて流罪の末に殺した上杉重能の息子の軍勢に待ち伏せされ、一族諸共殺害されてしまったのである。
この後、再び高一族が政治の表舞台に出ることはなかった。
一方、直義も師直の死去から1年後にこの世を去ってしまう。
直義が没した日は、奇しくも宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌であった。(※毒殺説もある)
おわりに
結局、2代将軍に就任したのは足利義詮であった。
逃亡した直義側に与したのは、細川・畠山・吉良・桃井といった足利一族一門衆であった。
師直は選択として直冬を討つのではなく、師直派の武将たちの意見を聞き入れて、先に逃亡した直義の捕縛にあたるべきだった。
ここが大きな運命の分かれ道だったといえよう。
しかし、師直が務めた幕府の執事という職務は、後に室町幕府の管領へと成長し、守護に恩賞として正しい土地の引き渡しをさせた師直の功績は大きい。
室町幕府が確立していく基盤は、師直が作ったと言っても過言ではない。
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