
画像:阿波国分寺 山門 wiki c Dokudami
徳島県徳島市国府町矢野にある薬王山金色院国分寺(やくおうざん こんじきいん こくぶんじ)は、奈良時代に聖武天皇の勅命によって建立された国分寺の一つである。
全国におよそ70か所建てられた国分寺のうち、阿波国に建立されたことから「阿波国分寺」と呼ばれている。
また、四国八十八ヶ所霊場の第十五番札所としても知られ、多くの巡礼者が訪れる寺院である。
創建当初の阿波国分寺は、東大寺と同様に七堂伽藍を備えた大規模な寺院であったことが発掘調査により明らかになっている。
現在は、長い歴史の中での荒廃、復興から、規模の小さな寺院となっている。
しかし最大の謎となっているのが、「なぜ阿波国分寺に、聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られているのか?」 という疑問である。
全国唯一の可能性もあり、地方の国分寺に位牌があるのは、非常に珍しいケースなのである。
そこで今回は、この阿波国分寺の歴史的背景と、その特異性について探ってみたい。
位牌が祀られる阿波国分寺の建立

画像:聖武天皇 public domain
阿波国分寺は、聖武天皇が政治を行った平城京より西国、淡路島を渡った先の四国の阿波国(現在の徳島県)に建立された寺である。
天平13年(741年)、仏教による国家鎮護を目的とした国分寺建立の詔が発せられ、各地に国分寺が建立され、阿波国分寺もその勅命により建立されている。
寺伝によれば、僧の行基が自ら薬師如来像を彫造して開基し本尊としたと伝えられる。
また、聖武天皇から釈迦如来像、大般若経、光明皇后の位牌厨子が寺に納められたと伝えられている。
国分寺創建当時の奈良仏教は、皇族や貴族が国や一族の繁栄のために、仏さまに護ってもらうことを目的としたものであった。
そのため、国分寺の役割は、国家安泰や五穀豊穣を祈る法要が主なものであった。
国分寺は国司の管轄下で国家鎮護や地方支配の一翼を担っており、一般庶民の信仰の対象として定着するには程遠い状態であった。
位牌の祀られている阿波国分寺の歴史
国分寺は創建当時、法相宗の寺院であった。
しかし、平安時代以降、真言宗、曹洞宗へと2回改宗している。
まず、平安時代に1度目の改宗が行われる。

画像:絹本著色弘法大師像 public domain
弘法大師空海が、810年から824年にかけて四国巡錫を行ったとされており、その際に阿波国分寺を訪れたという。
このとき、国分寺は法相宗から真言宗に改宗したと伝えられている。
戦国時代に入ると、阿波国分寺は長宗我部元親の四国征伐にともなう「天正の兵火」に遭遇し、堂宇が焼失、一時荒廃したと伝えられている。
当時の寺院は戦火に巻き込まれることが多く、阿波国分寺も例外ではなかったと考えられている。
江戸時代に入ると、阿波国は蜂須賀家が藩主となり、阿波国分寺もその庇護を受けることとなる。
1741年、徳島藩8代藩主・蜂須賀宗鎮(はちすかむねしげ)は、郡奉行・速水角五郎に命じて国分寺の復興を行わせた。
再建は丈六寺の僧侶であった吼山養師和尚(こうざんようしおしょう)が中心となって行われた。
この再建は、丈六寺の僧侶であった吼山養師和尚(こうざんようしおしょう)を中心に進められ、5年後の1746年に完了した。
このとき、曹洞宗であった吼山養師和尚の宗派に倣い、国分寺は真言宗から曹洞宗へと2度目の改宗をした。
現在の阿波国分寺は四国八十八箇所霊場の第十五番札所として、国内外から多くのお遍路さんが訪れる霊場となっている。
阿波国分寺の特徴と境内

画像:阿波国分寺 庭園 wiki c Dokudami
広大な境内は、創建当時のような七堂伽藍は存在しないものの、瑠璃堂と呼ばれる本堂、大師堂、薬師堂などが点在し、歴史を感じさせる佇まいとなっている。
特に本堂は、江戸時代に再建されたもので、重厚な風格を備えている。
境内には、阿波特産の青石を多用した枯山水庭園「阿波国分寺庭園」があり、国の名勝に指定されている。この庭園は、水を用いずに石や砂によって水の流れや風景を表現しており、枯池や枯滝が巧みに配置されているのが特徴である。
作庭の時期は明確ではないが、室町時代に造られたと推定され、江戸時代後期には大規模な改修が施されたと考えられている。
また、昭和を代表する庭園家・重森三玲(しげもりみれい)がこの庭園に感銘を受け、日本屈指の名園として高く評価したことでも知られている。
聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られている謎

画像:阿波国分寺 庭園の西側 wiki c Dokudami
阿波国分寺の最大の特徴は、前述したように「本堂に聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られている」ことである。
全国の国分寺の中でも、天皇と皇后の位牌が安置されている例は極めて稀であり、他に類例が見当たらない。
この由来については正確な史料が残されておらず、いまだに謎とされている。
一つの説として、『続日本紀』に記されている聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26ヶ国の国分寺に下賜された仏具等の一つだったのではないかと推測されている。
現存していないだけで、他の国分寺にも贈られた可能性は否めないが、阿波だけに贈られたとすると、阿波の国が特別扱いだった可能性も考えられる。
阿波の国が特別視された背景として、天皇家との深い関わりが挙げられる。
阿波の国は、朝廷に木綿や麻を納める忌部氏があり、現代でも天皇即位時の「大嘗祭(だいじょうさい)」に阿波忌部氏の末裔である三木家より「麁服(あらたえ)」とよばれる麻布が送られており、それを用いた衣装で儀式が行われている。
このことから、阿波の国は政治的な意味ではなく、天皇の祭祀において特別な役割を担っていたと考えられる。
こうした関係を踏まえると、阿波国分寺に聖武天皇と光明皇后の位牌が納められたのは、創建時に両帝の深い信仰心による御心遣いがあったか、あるいは阿波の国において両帝が特別な崇敬を受けていたためではないかと推測される。
いずれにせよ、阿波国分寺は聖武天皇と光明皇后の勅願寺としての性格を色濃く残しており、その歴史的価値は極めて高いといえるだろう。
参考 : 『四国八十八ヶ所霊場会』『おにわさん』他
文 / 草の実堂編集部
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