日本最古の軍師 吉備真備
軍師という言葉を聞くと大河ドラマで名をそのものにした黒田官兵衛や竹中半兵衛を思い浮かべることだろう。
しかし、軍師はいつからいたのか?と疑問に思うことも少なくないと思う。
鎌倉時代?室町時代?戦が多い時代の中から軍師が生まれたかと思うと意外とそうではなかった。
軍師が生まれたのは、なんと奈良時代であった。それも歴史の教科書では一度は聞いたことのある吉備真備(きびのまきび)が最古の軍師だった。
今回はそんな日本人最古の軍師と言われている吉備真備についてまとめてみたいと思う。
奈良時代に軍師として一体どのように立ち回ってきたのか気になるところである。
遣唐使として入唐する
吉備真備は備中国下道郡(岡山県倉敷市真備町)で持統天皇9年(695)に産まれた。元の名前は下道真備(しもみちのまきび)で後に吉備真備となる。
吉備真備と名乗るようになるのは真備が52歳のころでそれまでは下道真備を名乗っていた。
下道真備で使用していた下道氏は吉備地方で有名な豪族吉備氏の一族であったが、真備自身の身分は高くなかった。
しかし、真備は勉学に励み、15か16歳の時に大学(中央の学校)に入学した。本来、大学は官位が五位以上の貴族の子のみが入学を許されるのであるが、真備は学問の才能を持っていたので特別に入学を許されている。大学を卒業するころには従八位下の官位を与えられていた。
さらに真備は霊亀2年(716)に22歳の若さで遣唐留学生に選ばれる。当時は唐から文化や技術を持ってくることが日本の発展に繋がるので、真備は非常に優秀な人物であることがわかる。
遣唐留学生となった真備は翌年に阿倍仲麻呂、玄昉(げんぼう)と共に唐(とう)へ渡った。
唐では鴻臚寺と呼ばれる留学生用の施設で学び、そこで学んだ後に別の施設でさらに学んだと言われている。
唐で学んだものとして儒教、史書、陰陽五行説、音楽、兵学など一つの分野にとらわれずに唐で学べるものは学んだ。特に兵学に関しては「孫子の兵法」や諸葛亮が用いた「石兵八陣」を詳しく学び、また中国の代表的な兵法書の『六韜三略』(りくとうさんりゃく)を日本に持ち帰ったとされており、このことにより真備は軍師の祖とされている。
真備は唐には18年おり、天平7年(735)に日本へ戻った。長期に渡る唐滞在はこの時の皇帝、玄宗皇帝が真備の才能を惜しんでいたため、帰国させなかったとされている。また、真備と共に入唐した阿倍仲麻呂はそのまま唐に残り、帰国することはなかった。玄昉は同年に真備と共に帰国している。
聖武天皇に厚遇される
帰国後の真備は唐の技術や知識が豊富にあることで聖武天皇から重用され、従八位下から天平9年(737)には従五位上とスピード出世を果たした。
この時期は日本では天然痘が流行り、政治の中枢にいた藤原四兄弟が次々と天然痘で亡くなったこともスピード出世の要因かもしれない。
そして、真備はこの頃に大学助という職に任命され、大学制度改革も行った。主なことは使用する教科書に『史記』『漢書』『後漢書』を使用したことと身分ではなく試験の結果で職位を決めるように取り決めたことである。これにより身分が低いが、勉学において優秀な者が活躍できるきっかけを作りだした。
天平12年(738)に橘 諸兄(たちばなの もろえ)が右大臣に任命され、政権を握ると唐のことに詳しい真備と玄昉も重用された。2人が重用されたのは唐の事情に詳しかったこともあるが、諸兄自身が藤原氏中心の政治体制からの脱却を図ったことも考えられる。
しかし、この政治体制に不満を抱く者もおり、天平12年(740)には藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州の大宰府で反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。広嗣は諸兄政権に対して自身の親族に対する悪口や新羅との交友のため天平10年(738)に大宰府に左遷されていた。
官軍によって乱は鎮圧された後は後の孝謙天皇となる阿部内親王に『漢書』や『礼記』を教えたり、天平勝宝元年(749)に従四位上になった。
しかし、天平勝宝2年(750)、阿部内親王が孝謙天皇として即位すると孝謙天皇の母である光明子と親しい仲にあった藤原仲麻呂こと恵美押勝(えみのおしかつ)が政権を握り、真備は九州へ左遷された。
そして翌年には遣唐副士として2度目の入唐を果たし、唐では阿部仲麻呂と約15年ぶりに再会した。今回の真備の目的は鑑真の日本への招待であり、天平勝宝5年(753)に鑑真と共に帰国している。帰国後は唐で起きた安禄山の乱に備えるよう天皇から命が下ったので九州に防衛拠点を作成した。
恵美押勝の乱
天平宝字8年(764)、真備は70歳で造東大寺長官に任命され京都に戻るが、それと同時に恵美押勝が孝謙天皇と、後に法王となる道鏡と対立したことで反乱を起こしていた(恵美押勝の乱)。その乱を真備は遣唐使時代に学んでいた兵法を駆使して迅速に鎮圧した。
鎮圧の功績により真備は多くの職位を転じた後、天平神護2年(766)には右大臣に昇進した。学者の身分でここまでの昇進は稀なことで日本では真備と菅原道真の2人のみが右大臣まで昇進している。
その後は神護景雲4年(770)、光仁天皇の時代になってから老いを理由に右大臣を辞した後、宝亀6年(775)に83歳で亡くなった。
最後に
身分が低い中、勉学でのし上がった吉備真備。
身分という概念にとらわれず、努力で右大臣まで昇進した真備を見ていると努力一つで人は何にでもなれると自然と勇気を貰えてくる。
真備はこの時代から身分という肩書が政治を腐敗させる要因と思っていたのかもしれない。だから、自分の力でこの世を変えたいと思い、立身出世に励んだと考えてしまう。
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