奈良時代

長屋王の変と藤原広嗣の乱 「奈良時代を皇位継承をめぐる内乱から見る」

政争が続いた奈良時代

奈良時代遣唐使を復活してに学生や僧侶を留学させたので、さまざまな文物が日本にもたらされ、天平文化が花開いた時代だ。

その反面、皇位継承をめぐって政争を繰り返した時代でもある。

長屋王の変と藤原広嗣の乱

※藤原不比等

飛鳥時代にカリスマ的存在だった天智・天武天皇の直系の皇子たちが、皇位を継承して政権も担う形態が作られた。

しかし奈良時代には、藤原鎌足の次男の藤原不比等(ふじわらのふひと)とその子孫が天皇家の母方となって政権を担う、新たな形に変化した。

藤原氏の専権に反感を持つ古代豪族は、天智・天武天皇の直系の王たちを策略に引き込み、ことごとく失敗する。そして王たちは犠牲になって消えてゆく。

称徳天皇の崩御時には天武系の男子は誰もいなくなってしまった。

そして天智系の光仁天皇が即位して、その息子の桓武天皇へと皇位が継承されていく。

この記事では聖武天皇を大仏開眼に駆り立てた、長屋王の変藤原広継の乱を簡単に取り上げる。

聖武天皇の即位

飛鳥時代、藤原不比等文武天皇(42代天皇)に長女の宮子を入内させ、大宝元年(701)にのちに聖武天皇となる首皇子が誕生した。

文武天皇の父の草壁皇子は、天武天皇とその兄の天智天皇の娘の持統天皇(41代)との間に生まれた。

文武天皇の母はのちの元明天皇(43代)で、草壁皇子の異母妹であった。

その後、元明天皇元正天皇(44代)と女性天皇が続いて、神亀元年(724)聖武天皇(しょうむてんのう : 45代)が即位した。

長屋王の変と藤原広嗣の乱

※聖武天皇像(鎌倉時代、作者不詳)

聖武天皇には皇太子時代に、藤原不比等と県犬養三千代(あがたいぬかいの みちよ)との間に生まれた安宿媛光明子)が入内していた。

つまり聖武天皇の母の宮子と妻の光明子はともに藤原不比等の娘であり、異母姉妹ということになる。

光明子は神亀4年(727)に基皇子(もといのみこ)を生み、聖武天皇はすぐに皇太子とした。

聖武天皇には光明子以外に、県犬養広刀自(あがたのいぬかいの ひろとじ)という夫人がいる。

神亀5年(728)に基皇子が早世、同じ年に県犬養広刀自は安積親王を産むが、皇太子にはならなかった。

長屋王の変

藤原不比等は養老4年(720)に死去。

かわって右大臣には、天武天皇の孫で高市親王の子の長屋王が昇進した。長屋王は貧窮化していた人民へは夫役や租税の免除を行ない、官人には厳しい綱紀粛正を課した。

この厳格さが藤原氏をはじめ、ほかの官人の不満を集めていた。

基皇子を亡くして悲嘆にくれる聖武天皇に「基皇子は長屋王の呪詛によって殺された」との密告があった。聖武天皇はその情報に怒り、十分に詮議せずに長屋王に死を命じた。

長屋王は、妃で草壁皇子と元明天皇の娘である吉備内親王と、その3人の息子たちと自害した。

この神亀6年(729)の「長屋王の変」は藤原氏の謀略説が有力だが、長屋王は人望がなかったので聖武天皇の怒りを誰も諫めなかったとの説もある。

神亀6年は天平に改元され、光明子は皇后になった。臣下の娘が皇后になったのは、仁徳天皇(16代)の后の磐之媛(いわのひめ)にさかのぼるほど異例のことだった。

藤原四子の死

藤原不比等には4人の息子がいた。

長屋王の変と藤原広嗣の乱

※藤原武智麻呂像

「長屋王の変」ののち、

長男の武智麻呂(むちまろ)は大納言に任命された。

次男の房前(ふささき)は、前年の神亀5年(728)に中衛府の長官である中衛大将に就任していた。

三男の宇合(うまかい)と四男の麻呂(まろ)は、天平3年(731)に参議に推挙された。

天平7年(735)、太宰府で大流行して死者が多数発生した天然痘は、都でも猛威をふるった。天平9年(737)4月房前、7月麻呂武智麻呂、8月に宇合が相次いで死去した。

この藤原四兄弟の子孫はその後、南家、北家、式家、京家と藤原氏四家として続いていき、その後の日本の政治や文化に大きな影響を与えていくこととなる。

藤原広嗣の乱

聖武天皇は橘諸兄光明子の異父兄)を大納言とし、唐から戻った留学生の玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を重用した。

長屋王の変と藤原広嗣の乱

※藤原広嗣

これに対して天平12年(740)、太宰府に左遷されて太宰少弐となっていた藤原宇合の長子の藤原広嗣(ひろつぐ)は、不満を爆発させて挙兵し、玄昉と吉備真備の罷免を要求した。

聖武天皇は「反」(謀反よりも重罪)と見なして、広嗣追討軍を送り、広嗣は捕らえられて肥前国で処刑された。

藤原氏は一族から反逆者を出した贖罪として、不比等が賜わった食封五千戸を返上したいと申し出た。

そして二千戸は返還され、三千戸は総国分寺造営の費用に充てられた。

大仏開眼、孝謙天皇の即位

天平16年(744)、聖武天皇の第2皇子の安積親王(あさかしんのう)が脚気で死去する。

安積親王の急死に関しては暗殺説があり、この頃から台頭してきた藤原武智麻呂の次男の仲麻呂が疑わしいとされた。

創建時の大仏と大仏殿の貴重な画像。

平城京から恭仁京、紫香楽宮とうつろっていた聖武天皇は天平17年(745)に盧舎那仏建立の詔(るしゃなぶつけんりつのみことのり)を発して、平城京で大仏建立を始めた。

大仏は天平勝宝4年(752)に開眼した。※大仏について詳しくは「奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた」

天平勝宝元年(749)、聖武天皇は譲位して娘の阿倍皇太子が即位し、孝謙天皇(こうけんてんのう: 46代)となった。

母の光明皇太后は皇后宮職を改組して、紫微中台(しびちゅうだい)という新しい役職を新設する。この紫微中台とは皇太后の命令を直接施行し兵権も発動できる機関であった。

甥の仲麻呂を長官である紫微令とし、光明皇太后は自ら政治を動かすようになる。

藤原仲麻呂の専横

※橘諸兄(たちばなのもろえ)

天平勝宝8年(756)に聖武太上天皇が崩御、天平宝字元年(757)には正一位・左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が死去して、紫微令である藤原仲麻呂の専横がますます激しくなる。

孝謙天皇は、聖武太上天皇の遺詔により立太子した道祖王(天武天皇の孫で、新田部親王の子)を廃太子とし、黄文王・安宿王兄弟(どちらも父は長屋王、母は藤原不比等の娘の長娥子)を退け、大炊王(おおいおう : 天武天皇の孫で、舎人親王の子)を立太子させた。大炊王は仲麻呂の亡き息子真従の妻と結婚して、仲麻呂邸で暮らしていた。

その年、橘諸兄の長男の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)による政権奪取計画が発覚する。

これが「橘奈良麻呂の乱」である。

以後『橘奈良麻呂の乱から藤原種継事件まで「奈良時代を皇位継承をめぐる内乱から見る」』に続く。

 

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