奈良時代の権力を支配した女性たち
奈良時代における政治の前線では、女性が大きな役割を果たしました。
比較的弱い立場にあった男性天皇が、強力な女性の太上天皇(上皇)や皇后、そして彼女たちのブレーンによって支えられた点が特徴的です。
当時の政治情勢に対して、女性たちは大きな影響を与え、古代日本の権力を支配していました。
この時代におけるもう一つ重要な要素は、藤原氏の政治的な台頭です。藤原氏は天皇家との縁戚関係を利用して政治の中心に居座り、抵抗勢力との激しいせめぎ合いの中で勝利を収めていきます。
中心人物は藤原不比等(ふじわら の ふひと)になり、彼は持統天皇の信頼を得て、日本の律令制度の確立に大きな役割を果たしました。藤原氏は自らの娘を天皇家に嫁がせ、孫を天皇にしようと計画を進めましたが、藤原氏の動きを快く思わない勢力も存在しました。
藤原不比等が亡くなると、後継者となったのは彼の子どもたち、すなわち藤原四兄弟と長屋王でした。
奈良時代の権力をめぐる複雑な動きの中から、長屋王を倒すために藤原四兄弟が暗躍したことは、当時の政治情勢を大きく揺るがす出来事となりました。
この対立は奈良時代の政治史において重要な節目となり、藤原氏の権力拡大に繋がる出来事として歴史に残っています。
今回の記事では藤原氏の台頭と陰謀を中心としながら、奈良時代の歴史を振り返っていきたいと思います。
律令体制の確立者・藤原不比等
奈良時代の政治史において、大きな役割を果たした人物は藤原不比等になるでしょう。
彼の生い立ちと政治的活動は、以下のように要約できます。
・藤原氏による独裁政治の確立
文武天皇の統治下である698年、不比等は重要な詔を出させます。
この詔により藤原不比等の子孫だけが「藤原氏」を名乗ることが認められ、他の中臣氏からの藤原姓の使用が停止されました。
つまり不比等の家系だけが、太政官として政治を担うことになったのです。
・藤原姓の起源
藤原氏の起源は、不比等の父・中臣鎌足に遡ります。
鎌足は元々祭祀を司る家系出身で、天智天皇から「藤原朝臣」の姓を授かりました。これが藤原姓の始まりとされています。
・大宝律令と養老律令への関わり
藤原不比等は、大宝律令(701年)の編纂に深く関与しました。
さらに720年に亡くなる直前まで、大宝律令に取って代わる新しい法令、養老律令の準備にも取り組んでいます。
・黒作懸佩刀と皇統の象徴
不比等と天皇家との関係は「黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)」の伝承を通じて象徴されています。
この宝刀は、持統天皇の子である草壁皇子から不比等に、そして文武天皇(草壁の子)へと渡り、さらに不比等が再び保管し、最終的に聖武天皇に献上されました。この伝承は「皇統を守る者」の役割を不比等が担っていたことを示しています。
藤原不比等の死後、政権のトップには高貴な王族である長屋王が就きました。この人事は不比等が確立した政治体制において重要な交代を示しています。
不比等による政治活動は、古代日本の政治史において重要な転換点となり、律令体制の基礎を築くという大きな役割を果たしました。
土地政策の革新者・長屋王
藤原不比等の後継者であり、律令体制をさらに発展させた人物として長屋王があげられます。
彼の生い立ちや功績についても、以下で要約してみましょう。
・高貴な血筋の長屋王
長屋王は非常に高貴な出自を持っていました。彼の父は天武天皇の長男であり、持統天皇時代の太政大臣である高市皇子、母は元明天皇の同母姉である御名部皇女(父は天智天皇、母は蘇我氏)でした。
この血筋は、彼の政治的地位を高める重要な要素となりました。
・藤原不比等の死後に昇進
藤原不比等が亡くなった翌年、長屋王は右大臣に昇進しました。
不比等の次女の夫でもあり、不比等からも信頼が厚かったことが伺えます。
・三世一身法の制定
723年、長屋王は画期的な「三世一身法」を制定しました。
この法律により、新しく用水路を作成して新田を開墾した者は、その土地を三世代にわたって所有する権利を得ることができました。この政策は開墾を促進し、土地の利用を拡大することが目的でした。
・公地公民制の限界
当時の律令制度では「公地公民制」が原則とされていましたが、豪族や王族が私有地を持ち続けるなど、この制度は全国的に完全には実施されていませんでした。長屋王の政策(公地公民制)は限界を示すことになり、新たな土地政策への道を開いたと言えます。
・墾田永年私財法の導入
743年には、さらに進んだ「墾田永年私財法」が制定されました。
この法律により開墾者は、その土地を永久に私有することが可能になったのです。
持統天皇と不比等が中国の制度を模倣しようとした結果、日本の律令国家の実態に合わせた土地政策が導入されました。
長屋王の政治的活動は、彼の高貴な出自と藤原不比等との関係によって支えられ、公地公民制は日本の土地制度と農業政策に大きな影響を与えたのです。
奈良時代の政治的転換点・長屋王の変
奈良時代における政治的な転換期とは、間違いなく「長屋王の変」になるでしょう。
藤原氏による支配体制の確立と、それに伴う激動の時代を招く事件でした。
729年、長屋王は元正上皇や聖武天皇の重要なブレーンとして活躍していました。
しかし「長屋王の変」により、突如終わりを迎えてしまいます。
この事件は藤原不比等の子である、藤原四兄弟の陰謀によって引き起こされました。彼らは「長屋王が謀反を企んだ」として、長屋王に無実の罪を着せたのです。
この結果として長屋王は自害し、彼の正室である吉備内親王と彼らの子どもたちも命を落とします。
事件の背景には、聖武天皇と光明子の子である基王の早世がありました。基王の死後、藤原氏にとっての次の天皇候補は阿倍内親王(後の孝謙天皇)しかいなかったことが関係しています。
長屋王の正室、吉備内親王は高貴な血筋を持ち、藤原氏は光明子を皇后にするための計画を進めていました。
長屋王はこの計画に反対し、法令や前例を重視する姿勢を取ったため、藤原氏による陰謀を招いてしまったと言えるでしょう。
藤原氏の権力確立と突然の悲劇
長屋王が悲劇的な死を遂げた729年、藤原氏の計画通り、光明子が皇后に立てられます。
長屋王の一族の中で命を落としたのは、彼の正室である吉備内親王とその四人の子どもたちだけでした。長屋王の妻である藤原不比等の娘と、その子どもたちは生き残っています。この事実から長屋王の死が、藤原氏による用意周到な陰謀だったことは明らかです。
この一連の出来事により、天武・持統─草壁の血脈からの有力な後継者が一掃され、大きな政治的損失となりました。
長屋王の死後、藤原氏の台頭がさらに明確となります。734年には藤原四兄弟の長子である南家の武智麻呂が右大臣に就任しました。藤原氏の勢力がどれほど強大になったかを象徴するものでした。
しかし、世を謳歌していた藤原四兄弟にも悲劇が訪れます。737年、天然痘の流行により全滅してしまったのです。
予期しない突然のトラブルによって、藤原氏内部でも大きな動揺が広がることになったのです。
参考文献:出口治明『0から学ぶ「日本史」講義 中世篇』文藝春秋
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