奈良時代

聖武天皇は、なぜ大仏を建立したのか?

画像 : 東大寺大仏 wiki c Mafue

日本人であれば誰もが知っているであろう奈良の大仏
正式名称を盧舎那仏(るしゃなぶつ)という。

聖武天皇(しょうむてんのう)が東大寺に造仏したことで、有名な仏像である。

今から約1280年前の奈良時代に造られたが、なぜ聖武天皇はこの仏像を作ったのだろうか。

今回は、聖武天皇が大仏を造仏した理由について探っていきたい。

聖武天皇が大仏を造仏するまでの歴史

画像 : 東大寺盧舎那仏像 wiki c Mass Ave 975

724年に聖武天皇が即位してすぐ、皇族で左大臣に就いていた長屋王(ながやおう)との間で、母の藤原宮子(ふじわらのみやこ)の称号に関して、トラブルが発生した。

これは皇族とはいえ、臣下の者が君主の方針に口出しを行い、それを君主が認めなければいけない事態となった事件で、辛巳事件(しんしじけん)と呼ばれる。

727年には妃の藤原光明子との間に基皇子(もといのみこ)が生まれたものの、翌年病没してしまう。

その頃長屋王は、大般若経の写経に取り組んでおり、基皇子が亡くなった時期に完成させていたこともあり、聖武天皇は「長屋王による呪詛ではないか?」と疑うようになっていた。

長屋王は藤原四兄弟とも確執があり、聖武天皇とのトラブルに便乗した藤原氏の策略により、長屋王は自殺に追い込まれた。(※長屋王の変

左大臣の長屋王が排斥されたことで藤原氏が権力を握ると、今度は天然痘が流行り始める。

画像 : 天然痘ウイルス publicdomain

天然痘は、遣唐使や遣新羅使が帰国の際に大陸から持ち込んだとされており、数年をかけて九州から全国に蔓延した。
致死率が非常に高い疫病であり、当時の国内では、罹患した者がバタバタと亡くなっていく恐ろしい病であった。

この病が平城京にも襲い掛かると、政治を主導していた藤原四兄弟も立て続けに感染し、亡くなってしまった。

聖武天皇は、公卿で生き残った橘諸兄(たちばなもろえ)を中心に政治を立て直そうとする。

画像 : 橘諸兄(たちばなのもろえ)『前賢故実』より public domain

しかし、橘諸兄や諸兄の右腕として活躍した僧の玄昉(げんぼう)、学者の吉備真備(きびのまきび)を中心とした体制に対し、藤原四兄弟の三男である藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長男・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、九州の大宰府で反乱を起こす。

このような政変や疫病の蔓延といった厄災が、724年の即位以降、16年間で起こり続けたのである。

すると聖武天皇は、突然都を離れ、関東(平城京の東関より東に広がる地域)への行幸を始めた。

これは国難を乗り切るため、曾祖父の天武天皇が壬申の乱の際に飛鳥の地から辿ったルートを巡ることで、追体験しようとしたのではないかと考えられている。

そして、京都府木津川市の辺りに到達した際、その地に新たな都を造営することを指示する。

それが恭仁京(くにきょう)である。
恭仁京を造営する際、唐の都の洛陽に見立てたと云われている。

画像:聖武天皇 public domain

聖武天皇は関東行幸を行っている中で、自身の統治時代になってから起こった臣下の死や反乱、地震や疫病の蔓延を振り返り、自身の徳の無さが原因だと自分を責めるようになったという。

そこから無力さを痛感した聖武天皇は、『仏教にて国を護る』という鎮護国家(ちんごこっか)という思想に走り出し、次第に仏教に傾倒していくようになったのである。

その後、恭仁京の整備方針と同じように、唐の龍門石窟の盧舎那仏を再現しようとしたのか、紫香楽離宮(しがらきりきゅう)での大仏建立を指示する。

そして恭仁京造営は、紫香楽宮の造営に注力するために突如中止され、恭仁京から難波宮に遷都される。
その上で、紫香楽離宮を都として造営するようになった。

難波宮に遷都してすぐであったが、聖武天皇は紫香楽宮に移って常駐し、造仏に力を注ぐようになる。

政治よりも、大仏造仏が中心となったのだ。

大仏造仏は、紫香楽宮から平城京へ

遷都を繰り返した聖武天皇の行動は、多くの反発を招く結果となった。

イメージ

ある者は山へ火を放ち、山火事を起こすことで、不満を爆発させた。
そのような不審火についても、聖武天皇は自身の徳の無さが原因と反省した。

不審火を鎮めるために大赦を行う指示を出すものの、なんとその日に大地震が発生。
その後も余震が続いたことで、「紫香楽宮への遷都が原因だ」という見方が人々の間で広がっていった。

聖武天皇は動揺し、太政官や平城京の四大寺の僧の意見を確認し、最終的には平城京に復帰する方針をとる。

大仏造仏を成し遂げたい聖武天皇は、紫香楽宮での造仏は諦めるものの、平城京近くでの造仏を検討する。
そこで候補地に挙がったのが、基皇子の菩提寺となっていた金光明寺(のちの東大寺)であった。

745年8月、この地で大仏の工事が再開されると、752年に大仏開眼供養会を行い、ついに大仏は完成したのである。

聖武天皇が大仏を作った真の理由

画像 : 東大寺盧舎那仏像 wiki c Mass Ave 975

聖武天皇の即位から、大仏完成までの生涯を追いかけてみた。

造仏した理由は、『政治が上手くいかず、神仏頼みという状況になってしまったから』だといえる。
聖武天皇の即位後、政治的なトラブルや天災の頻発、感染症の蔓延など、災難が続いた。

それらの原因として、民衆たちからも「統治している天皇に徳がないせいだ」と捉えられていた。
それが天皇を苦しめ、仏教に傾倒していく背景となっていたのだ。

しかし、なぜ大仏の造仏という選択に至ったのか。
この鍵を握るのは、河内国の智識寺という寺に祀られていた盧舎那仏である。
盧舎那仏は、この時代に伝わっていた「華厳経」の教えの中で説かれており、聖武天皇は、この盧舎那仏造を礼拝した際に願いを託したのであろう。

聖武天皇は、智慧の光で世界を照らす盧舎那仏を作ることで、国の隅々まで仏法の功徳が行きわたり、厄災がなくなることを願ったのではないだろうか。

参考 : 奈良時代創建–聖武天皇の願い | 東大寺

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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