住んでいる国や街をみんなで支えあい、よりより社会を作るための費用として収集される税。
公的なサービスを行うために公平的に徴収されるべきお金である。
税の仕組みは、現代のような貨幣経済からお金をイメージするが、貨幣経済となる前は、色々な形で納める形になっていた。
日本における税の歴史は古く、3世紀頃には既に税の制度があった記録が残されている。
最古の文献である『日本書紀』や『古事記』は奈良時代に作成されたものだが、その文献に記載されていたのかといえば、そうではない。
中国の『魏志倭人伝』に記載されていたのだ。
魏志倭人伝といえば邪馬台国。
つまり、卑弥呼の支配した邪馬台国に、税制度があったということだ。
邪馬台国から飛鳥時代までの歴史は、記録が何も残っていないことから、今もなお謎に包まれている。そのため、古墳時代から飛鳥時代にかけての日本に税制度があったかということもわからない。
本格的に税が制度として作られたのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が蘇我入鹿を排除し、行政改革を進めた大化の改新の頃である。
大化の改新は、それまでの遣隋使や遣唐使が持ち帰った唐の先進的な制度を取り込み、統治制度を構築していくものであった。
その中で、大宝律令で確立される「租・庸・調・雑徭」といった税制度も構築されていくのである。
奈良時代の税制度
大宝律令は、701年に文武天皇(もんむてんのう)の指示により作られた。
その中で、大化の改新より制度化が進められていた「租・庸・調」といった税制も完成する。
大宝律令の制定により、班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が制定される。
この法律において、土地は全て国のものとされ、天皇よりその土地を口分田として一人ずつに貸し与えられる形となったのである。
6歳以上の男子に2反、女性にはその3分の2の広さの田が分けられ、田を与えられる代わりに、「租・庸・調・雑徭」といった税を納めなければならなくなったのである。
なお、2反とは、一般的な学校のプール(縦25m×横12.5m)の8つ分程度の広さでイメージしてもらいたい。
それぞれの税の詳細は次の通りである。
・租
租は、口分田1反当たり、2束2把(約22升:約30kg)の米を納める税。
収穫量の3~10パーセントに相当する。
他の税とは違い、地方の役所に納める地方税であった。・庸
庸は都で10日間の労働を行うか、代わりに一定量の米や布を納める税。
女性には係らず、21歳以上の男性に係る税であった。・調
調は繊維製品を納入するか、地方の特産物を国に納める税。
庸と同様に、男性のみに係る税であるが、調は庸よりも若い17歳から対象となっていた。・雑徭
国司のもとで1年間のうち60日間労働をするという税。
春から秋の期間は農地で米を作ると秋から翌年の春までは休めるかといえば、そうではなかった。
平城京や畿内に住む庶民は庸と調が免除された
平城京や周辺の畿内に住む庶民には、庸と調の免除があった。
710年に平城京に都を移したとはいえ、それは完成されたものでなかった。
そのため、都では工事が必要であり、また天皇や朝廷の指示による寺院の造営や管理に伴う建設作業も多く発生していた。
平城京や畿内の庶民は、このような雇役(こえき)に駆り出されることが多くあったことから、租以外の税が免除されていたのだと考えられているのである。
飛騨の人々も庸と調が免除された
「飛騨の匠」という言葉を聞いたことがないだろうか。
この言葉は奈良時代から生まれたものであった。
当時の飛騨国には優れた木工技術があり、それぞれの里から1年交代で10人ずつを出し、都や寺院を造る仕事に携わる職人派遣を行った。
この飛騨の職人を「飛騨の匠」と呼んだのである。
この派遣により、朝廷は優れた木工集団の派遣を受ける見返りとして、飛騨国の農民への庸と調を免除したのである。
農民を苦しめた本当の負担
さて、当時の税制度を説明したが、租においてはわずか3~10パーセントという負担率。
しかし、学校で教わった歴史においては「人々を苦しめた」ということになっている。
税で農民を一番苦しめたのは、「米の都への運搬」や、「労役」であった。
農業従事期間に徴兵や都の警備をさせられることになると、田畑の管理ができなくなる。
結果、米が上手く作れない状態となり、収穫も激減してしまう。
それでも税率分は持って行かれてしまう。
結果的に農民は口分田を捨て逃げてしまったり、戸籍を女と偽り、税から逃れる者もいた。
武士誕生のきっかけとなった墾田永年私財法の誕生
奈良時代になると、大宝律令制定時よりも人口が増加していった。
口分田は不足するようになり、食糧不足が起きるようになる。
このような背景から723年に「三世一身の法」が制定された。
これは、「口分田で与えられた田畑以外に新たに開墾した土地は、孫の代まで三世代私有化できる」という法であった。
しかし、返却が必要なことには変わりなく、返却前になると新たに開墾した土地は放置されるようになったりと、制度的には失敗となった。
これを受け、743年に「墾田永年私財法」が発布される。
「新たに開墾した土地は、国に返す必要がなく、開墾した者が永久に所有してよい」というものであった。
これを受け、貴族や寺社が農民を雇い、未開の土地を開墾させるようになる。
これが貴族や寺社の私有財産となる「荘園」となったのである。
後にこの荘園の略奪を阻止するため、農民を武装させ警備を依頼するようになっていった。
これが武士階級へと変化を遂げていくようになるのである。
参考 :
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・国税庁 奈良時代の租・庸・調
・国税庁 税の歴史
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