宇佐神宮は、全国4万6000千社以上ある八幡神社の総本宮である。
6世紀に宇佐の地に八幡神(はちまんおおかみ)が初めて現れ、725年に現在の地に八幡神を祀る社殿を建てたことが、神宮の由緒とされている。
元々宇佐の地では、神代の頃に降臨されたとする比売大神(ひめおおかみ)が地主神として祀られていた。
八幡神が祀られた8年後の733年、比売大神を祀る旨の神託が降り、宇佐の国造は二之御殿を建立し、比売大神を祀ったとされている。
また、823年に降りた神託により三之御殿が建立され、八幡神である応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)を祀るようになる。
これにより宇佐神宮には三柱の神が祀られることとなり、この三柱の神が「八幡三神」と呼ばれることとなる。
このように8世紀に創建された宇佐神宮だが、なぜ伊勢神宮と肩を並べる神社になったのだろうか。
それは、769年に起きた宇佐八幡宮神託事件と大きな関わりがあるとされている。
今回は、宇佐八幡宮神託事件と宇佐神宮について掘り下げていきたい。
宇佐神宮の起こり
古墳時代以前の太古の時代に宇佐の地を支配していたのは、地方豪族である宇佐氏であった。
欽明(きんめい)天皇の時代になると、豊前・豊後の国に大神比義(おおがのひぎ)が入り、支配を行うようになる。
この大神氏は元々神職についていた豪族であり、豊前・豊後に入ってからは神社興しを行っていった。
大神比義は宇佐の地に入ってから3年間祈祷を行い、神への祈りを続けていると、そこに八幡神である応神天皇の神霊が姿を現したという。
725年、亀山に八幡神が鎮座したということで本殿が建立され、八幡神が祀られる。
その8年後の733年、元々亀山に宇佐氏によって祀られていた比売大神(ひめおおかみ)を祀る二之御殿が建立され、現在の宇佐神宮の原型が出来上がるのである。
そして、平安時代初期には神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る三之御殿が建立され、現在の三柱の神が祀られる神宮となった。
宇佐神宮と朝廷の関係
6世紀に八幡神が出現し、比売大神とともに地元で祀られてきていたものの、お祀りする社殿が完成するのは、8世紀に入ってからのこと。
720年、現在の鹿児島県に当たる大隅国で「隼人の反乱」と呼ばれる大規模な反乱が発生した。この乱の制圧に征夷大将軍として大伴旅人(おおとものたびと)が向かう。
この反乱は「宇佐の神様の加護があったため朝廷軍が勝利した」と云われている。
また、740年に起こった「藤原広嗣の乱」においても、朝廷軍が宇佐神宮に立ち寄って戦勝祈願を行ったところ、短い期間で鎮圧し終息させられたことから、宇佐神宮と朝廷との関係は少しずつ密接になっていった。
その後、聖武天皇が大仏造立を始めると、宇佐神宮の神職である大神田麻呂(おおがのたまろ)と大神杜女(おおがのもりめ)は、聖武天皇に八幡神の託宣を奏上した。
「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」
簡単にいえば、「八幡神自らがすべての神を率い、その身を投げ出してでも大仏づくりの妨げになるものから守り、成功させよう」というものである。
そしてこの託宣の奏上以降、なんと金鉱が見つかり大量の金が平城京に献上され、無事に大仏は完成した。
聖武天皇は大変喜び、こうして奈良の朝廷と九州の宇佐神宮との間に強い縁が生まれたのである。
宇佐八幡宮神託事件とその後
称徳天皇の時代になると、僧の道鏡が朝廷内で権力を持つようになる。
道鏡は官職としての最高位である太政大臣となり、宗教上の法王にも任命されたことで、上には天皇の地位しか残されていない状態であった。
そのため、朝廷内では天皇とほぼ同格の待遇を受けるようになっていた。
そのような中、道鏡自身の画策か、道鏡に取り入るためか真偽は不明だが、大宰府で主神の職であった中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)と道鏡の実弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)が、宇佐八幡神の神託があったと称徳天皇に奏上した。
それは
「道鏡が天皇につけば、世は太平になる」
というものであった。
称徳天皇は喜んだものの、神託の真偽を確かめるため、和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐神宮に派遣する。
道鏡は、和気清麻呂が出立する前に「うまくことが運べば取り立てよう」と、清麻呂を懐柔しようとした。
しかし清麻呂は「道鏡に皇位継承してはいけない」という神託を奏上し、道鏡は天皇となることができなくなった。
これにより和気清麻呂は流罪にされるのである。
このように道鏡、もしくは道鏡に取り入ろうとした官僚に利用されることがあったものの、宇佐神宮と朝廷との関係はこの後も良好であった。
平安時代になると嵯峨天皇の命により、本殿までの参道の途中に下宮が創建され、本殿の分神を祀るようになる。
また、第56代清和天皇の時代には、大安寺の和尚である行教が宇佐神宮を勧請し、平安京に石清水八幡宮が創建された。
このように、奈良時代に築かれた宇佐神宮と朝廷との絆は、平安時代にも継続していったのである。
なぜ宇佐八幡宮は神宮となったのか
全国に4万6000社を超える八幡宮の中で、なぜ宇佐八幡宮は神宮となり、伊勢神宮と肩を並べるようになったのだろうか。
古代史の通説は以下である。
5世紀のはじめ、ホムタワケという人物が九州より船出し、九州から関東に至る国を征服して統一していった。
ホムタワケは大和国にて大王となり、応神天皇となる。
奈良時代の頃には、天皇家の始祖は応神天皇とみられていた。
そのため、応神天皇が出現し八幡神として祀った宇佐八幡宮は、祖先神を祀った神社として特別な神社となったと考えられている。
国家に関わる事件において伊勢神宮ではなく宇佐八幡宮に神託を求めたのも、天皇家の始祖である応神天皇からの神託を求めたからなのであろう。
参考 :
八幡総本宮宇佐神宮
宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟か 安部和也著
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