天正十四年、豊後の国に主のいない城があった。
老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である。
その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった。
彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた。
今回は、妙林尼がいかにして島津軍を打ち破ったのか、その痛快な逆襲劇を紹介したい。
この女、タダモノではない

画像:吉岡妙林尼(みょうりんに) 草の実堂作成(AI)
吉岡妙林尼は、大友氏の家臣・吉岡鑑興(あきおき)の妻である。
妙林尼の本名や生年、出自については詳らかではなく、わずかに『大友興廃記』や『両豊記』、ルイス・フロイスの書簡にその名が見られるのみである。
鑑興は、父・吉岡長増(ながます)の跡を継いで鶴崎城の城主となったが、天正六年(1578年)、耳川の戦いで討ち死にしてしまった。
その後、家督は息子の統増(むねます/通称・甚橘)に譲られ、彼女は出家して妙林尼と称するようになった。
天正十四年、九州制覇を狙う島津軍が、豊後への侵攻を開始。
豊後各地が次々と制圧されるなか、当時の鶴崎城は、もはや風前の灯であった。
というのも、城主である息子の統増は、主君・大友宗麟(そうりん)の命により、主力の兵を率いて臼杵城に籠っていたのだ。

画像 : 大友宗麟像 public domain
城に残されたのは、わずかな老人兵と、農民、女子供ばかり。
戦うどころか、守りすらままならない状態だった。
そんななか、城主名代として指揮をとったのが妙林尼だった。
彼女は人々を叱咤し、士気を奮い立たせると、破竹の勢いで迫る島津軍に立ち向かう覚悟を固めたのである。
老人・農民・女子供でどう戦う!?
戦うといっても、相手は精強を誇る島津の大軍である。
尼が率いる頼りない軍勢に、果たして何ができるのかと誰もが思ったことだろう。
しかし、ここからが妙林尼の真骨頂であった。
彼女は自ら先頭に立ち、農民たちに命じて畳や板をかき集めさせ、城の周囲に即席の柵や砦を築いた。
さらに堀には無数の落とし穴を掘り、鉄砲が矢面にずらりと並べられた。

画像:妙林尼の知略 草の実堂作成(AI)
こうして迎撃の備えが整ったところで、ついに決戦の日が訪れた。
押し寄せてきたのは、三千の兵を率いた島津の猛将、伊集院久宣(ひさのぶ)、野村文綱(ふみつな)、白浜重政(しげまさ)らであった。
「尼一人が守る小城」と侮っていた島津軍であったが、その足元はすでに妙林尼の仕掛けた罠に満ちていた。
敵兵が落とし穴にはまったその瞬間、妙林尼の合図とともに、一斉に鉄砲が放たれた。

画像:鶴崎城攻防戦 草の実堂作成(AI)
鉄砲を扱っていたのは、妙林尼から使い方を教わったばかりの素人の農民たちであった。
しかし至近距離からの射撃であったため、弾は面白いほど命中したという。
不意を突かれた島津軍は、たちまち混乱に陥った。
妙林尼の知略は冴えわたり、攻防は実に十六度に及んだ。
とはいえ、小さな城である。
やがて矢弾も尽き、兵糧も底をついた頃、島津側から和睦の申し出が届く。
妙林尼は「これ以上戦って、人々を無為に死なせるわけにはいかぬ」と判断し、全員の命の保証を条件に城を明け渡した。
だが、この和睦には続きがあったのだ。
和睦から始まる逆襲の計略
妙林尼は敗軍の将でありながら、島津軍が城下に用意した屋敷で、囚人とは思えぬ穏やかな生活を送っていた。
折に触れて伊集院らを屋敷に招いては、自ら酒食をもてなし、侍女たちに酌をさせて歓談の場を設けたという。
その席では、酒に酔いながら歌い、踊り、笑い合う光景さえあったと伝えられている。

画像:妙林尼と島津兵 草の実堂作成(AI)
やがて妙林尼と島津の諸将との間には、奇妙な信頼関係のようなものが生まれていった。
それは友情であったのか、あるいは親子にも似た情であったのか、真意は定かではない。
そして、落城から一年が経った天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が自ら大軍を率いて島津討伐に乗り出すとの報が届く。
これを受け、伊集院ら島津軍には薩摩への撤退命令が下された。
このとき妙林尼は、「もはや主君に顔向けできぬ。いっそ自分も薩摩へ連れて行ってほしい」と申し出た。
島津側もこれを受け入れ、彼女は同行することとなった。
出立の日、妙林尼は祝賀を名目に島津兵へふんだんに酒を振る舞い、兵たちをたっぷりと酔わせた。
そして、彼らが千鳥足で道を進むその隙を突き、家臣たちに命じて奇襲を仕掛けたのである。※寺司浜(てらしはま)の戦い。
完全に油断していた島津軍は抗う術もなく、多くの兵が討たれた。
伊集院久宣と白浜重政はこの戦いで討死し、野村文綱も流れ矢に倒れ、深手を負って日向国まで逃れたものの、間もなくその傷がもとで没したと伝えられている。
秀吉をも唸らせた女傑
妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた。
宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている。

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain
この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという。
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した。
主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将。
その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない。
その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない。
参考文献:『大友興廃記』『戦国驍将・知将・奇将伝』他
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。