戦国時代

山本勘助は本当に実在したのか?【信玄の軍師】

山本勘助

※山本勘助の肖像画。恵林寺蔵 wikiより

多くの武将を配下にしていた武田信玄。その配下の中で信玄の軍師として活躍したとされているのが山本勘助です。

架空の人物だと思われている理由は

山本勘助は実は今まで架空の人物とされていました。
武田家の歴史が書かれている「甲陽軍鑑」という歴史書にしか名前が記載されておらず、歴史書として価値がある書物には山本勘助の名前が記されていない事が原因です。甲陽軍鑑は書かれた時期は古いのですが江戸時代から色々な誤りを指摘されており、史料価値としてはあまり高くありません。実際に山本勘助は作り上げられた理想の軍師として昭和に入るまで語られていたほどです。

ただ山本勘助が軍師だったとは「甲陽軍鑑」にも書かれておらず「軍配鍛錬の者」と記載があり、川中島の合戦では「啄木鳥の戦法」を進言したことから軍師だったのだろうと憶測されていたにすぎません。

しかし大河ドラマ「天と地と」がきっかけで勘助に注目が集まりました。

NHK大河ドラマ「天と地と」は上杉謙信の一生を描いた物語です。このドラマがきっかけで山本勘助の話題も多くなり、視聴者の北海道在住のある方が、先祖伝来の古文書の中から「勘助の名が書かれた書状が家にある」と言って北海道大学に持っていったのです。
書状の中に山本勘助の名前が載っており勘助は実在人物だと証明されました。
ただ書状は「山本菅助」という明記になっており漢字が違うのですが、漢字表記が重要視されていない時代ですので山本勘助は実在したことになりました。

謎の多い人物である 山本勘助

※太平記英勇伝六十七「山本勘助晴幸入道」wikiより

山本勘助の存在は明らかになりましたが、まだ謎が多いです。
本当に信玄の軍師として活躍していたかさえ明確にはされていません。
勘助は軍師として名を歴史に残していますが「武功雑記」という本には山県昌景に抱えられていた斥候であると書かれており軍師としては一切記載がありません。

実際は信玄の軍師ではなく山県昌景の配下として働いていたのではないかという憶測もあります。
書物により勘助に関する記述が違うので実際のところ謎ばかりですね。

山県昌景という人物は武田家きっての精鋭部隊である赤備えを率いていた人物です。武田家滅亡後も井伊直政や真田幸村も赤備えを採用し活躍しています。

甲陽軍鑑での記述ですが、勘助の功績として信州戸石城の攻略が挙げられます。戸石城を攻めた武田軍は、城の救援に駈けつけた敵軍に背後を突かれ挟み撃ちにされますが、勘助は信玄に献策し、みずから五十騎の兵を従えて敵軍を挑発しました。五十の兵から罵声を浴びた敵勢は罠にはまり、勘助の一隊を追いはじめますがそこへ武田軍本隊が敵勢を追撃にかかり、劣勢を挽回して勝利に導きました。敗れかかった軍を立て直した戦法は「破軍建返し」とよばれ、勘助の軍略が認められました。

勘助は京流兵法を学び、陣取りや城取りの技を会得していたが戦場で手足が不自由になり中々仕官ができなかったとも。そんな勘助の活躍も川中島の合戦が最後だと言われています。勘助率いる200名の前に上杉軍が突如現れ死を覚悟で突撃しましたが討ち死にしたようです。

結果的に山本勘助という武将は存在したが軍師ではなく、信玄にある程度信用されていた武将というのが現在の学会の評価です。

山本勘助(菅助・菅介)は、『真下家所蔵文書』などの一次史料にも見られる事から、その実在は間違いありませんがやはり軍配者や軍師(作戦参謀)ではなく、主に北信濃で活躍した足軽大将であったようです。ただ勘助が足軽大将だとしたら有名な「キツツキ戦法」は誰が考えたのでしょうか?激戦を潜り抜けてきた武田軍の名将の誰かになるわけですね。

山本勘助が考えた戦法だと思いたいしそうあってほしいと願いたいです。

山本勘助の実在についてのまとめ

※川中島の戦いで討ち死にする山本勘助 wikiより

甲陽軍鑑では勘助は川中島の合戦で討ち死にしますが、他の史料には勘助討ち死にの記述はありません。他の武将の討ち死には記載されているのですが、山本勘助の記述が全くないのは不自然なことです。
有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちも信憑性は低いようです。

歴史は今だ多くの謎だらけですが、ヒーロー的な軍師がいたとしたらとワクワクしてきます。山本勘助にはファンが多く、軍師として大活躍していたと願いたい歴史上の人物の一人です。

関連記事:
武田信玄の命を縮めた一発の銃弾
武田信玄【苦悩の人生】最強軍団完成までの道のりを調べてみた
高坂昌信と甲陽軍鑑 【武田氏の歴史を今に伝えた武将】

yuichan

投稿者の記事一覧

文章を書くことが好きです。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 瀬戸内海のジャンヌダルク、鶴姫の伝説
  2. 太田道灌について調べてみた【江戸城を最初に作った人物】
  3. 戦国時代の人口について調べてみた
  4. 上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話 「兜マニアだった」
  5. 赤備えを用いた戦国武将たち 「異常に強かった恐怖の軍団」
  6. 吉田城へ行ってみた【続日本100名城】
  7. 立花宗茂【秀吉に絶賛された西の最強武将】
  8. 島津義弘の晩年エピソード 「ぼんやり防止はコレが一番?鬼島津と恐…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

時代劇の作り方について調べてみた 〜「どうする家康」はどうやって撮影しているのか?

「どうする家康」や「大奥」などの時代劇ドラマ、「THE LEGEND & BUTTERFLY…

キラキラネームは昔から存在していた 「悪魔ちゃん、王子様騒動の顛末」

キラキラネームとは、一般的に名前に独自の当て字を付けた個性的な名前、または人名にはあまり見ら…

【虎に翼】高等試験に受かるのは誰? 「寅子のモデル・三淵嘉子は一発合格」

NHK朝ドラ『虎に翼』では、「共亜事件」が解決し、寅子たちは現在の司法試験にあたる「高等試験(高等文…

犬公方・徳川綱吉は本当に暴君だったのか? 【前編】

徳川綱吉とは江戸幕府開府からおよそ80年、人々を翻弄し苦しめたと言われた将軍が登場する。…

「虫歯は“神が許した虫”だった?」知られざる古代の虫歯伝説

虫歯は人類にとって、最も身近な病気の一つである。現代日本において、歯科医院の数は約6…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP