多くの武将を配下にしていた武田信玄。その配下の中で信玄の軍師として活躍したとされているのが山本勘助です。
架空の人物だと思われている理由は
山本勘助は実は今まで架空の人物とされていました。
武田家の歴史が書かれている「甲陽軍鑑」という歴史書にしか名前が記載されておらず、歴史書として価値がある書物には山本勘助の名前が記されていない事が原因です。甲陽軍鑑は書かれた時期は古いのですが江戸時代から色々な誤りを指摘されており、史料価値としてはあまり高くありません。実際に山本勘助は作り上げられた理想の軍師として昭和に入るまで語られていたほどです。
ただ山本勘助が軍師だったとは「甲陽軍鑑」にも書かれておらず「軍配鍛錬の者」と記載があり、川中島の合戦では「啄木鳥の戦法」を進言したことから軍師だったのだろうと憶測されていたにすぎません。
しかし大河ドラマ「天と地と」がきっかけで勘助に注目が集まりました。
NHK大河ドラマ「天と地と」は上杉謙信の一生を描いた物語です。このドラマがきっかけで山本勘助の話題も多くなり、視聴者の北海道在住のある方が、先祖伝来の古文書の中から「勘助の名が書かれた書状が家にある」と言って北海道大学に持っていったのです。
書状の中に山本勘助の名前が載っており勘助は実在人物だと証明されました。
ただ書状は「山本菅助」という明記になっており漢字が違うのですが、漢字表記が重要視されていない時代ですので山本勘助は実在したことになりました。
謎の多い人物である 山本勘助
山本勘助の存在は明らかになりましたが、まだ謎が多いです。
本当に信玄の軍師として活躍していたかさえ明確にはされていません。
勘助は軍師として名を歴史に残していますが「武功雑記」という本には山県昌景に抱えられていた斥候であると書かれており軍師としては一切記載がありません。
実際は信玄の軍師ではなく山県昌景の配下として働いていたのではないかという憶測もあります。
書物により勘助に関する記述が違うので実際のところ謎ばかりですね。
山県昌景という人物は武田家きっての精鋭部隊である赤備えを率いていた人物です。武田家滅亡後も井伊直政や真田幸村も赤備えを採用し活躍しています。
甲陽軍鑑での記述ですが、勘助の功績として信州戸石城の攻略が挙げられます。戸石城を攻めた武田軍は、城の救援に駈けつけた敵軍に背後を突かれ挟み撃ちにされますが、勘助は信玄に献策し、みずから五十騎の兵を従えて敵軍を挑発しました。五十の兵から罵声を浴びた敵勢は罠にはまり、勘助の一隊を追いはじめますがそこへ武田軍本隊が敵勢を追撃にかかり、劣勢を挽回して勝利に導きました。敗れかかった軍を立て直した戦法は「破軍建返し」とよばれ、勘助の軍略が認められました。
勘助は京流兵法を学び、陣取りや城取りの技を会得していたが戦場で手足が不自由になり中々仕官ができなかったとも。そんな勘助の活躍も川中島の合戦が最後だと言われています。勘助率いる200名の前に上杉軍が突如現れ死を覚悟で突撃しましたが討ち死にしたようです。
結果的に山本勘助という武将は存在したが軍師ではなく、信玄にある程度信用されていた武将というのが現在の学会の評価です。
山本勘助(菅助・菅介)は、『真下家所蔵文書』などの一次史料にも見られる事から、その実在は間違いありませんがやはり軍配者や軍師(作戦参謀)ではなく、主に北信濃で活躍した足軽大将であったようです。ただ勘助が足軽大将だとしたら有名な「キツツキ戦法」は誰が考えたのでしょうか?激戦を潜り抜けてきた武田軍の名将の誰かになるわけですね。
山本勘助が考えた戦法だと思いたいしそうあってほしいと願いたいです。
山本勘助の実在についてのまとめ
甲陽軍鑑では勘助は川中島の合戦で討ち死にしますが、他の史料には勘助討ち死にの記述はありません。他の武将の討ち死には記載されているのですが、山本勘助の記述が全くないのは不自然なことです。
有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちも信憑性は低いようです。
歴史は今だ多くの謎だらけですが、ヒーロー的な軍師がいたとしたらとワクワクしてきます。山本勘助にはファンが多く、軍師として大活躍していたと願いたい歴史上の人物の一人です。
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