信玄を退けた武将
村上義清(むらかみよしきよ)は北信濃の戦国大名として、一度ならず二度までもあの武田信玄を退けた実績を持つ人物です。
さすがに三度目はなく、北信濃を信玄から追われた義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延びました。
これが信玄と謙信との都合5度にもわたる川中島の戦いを引き起こすきっかけとなりました。
信玄を退けた義清の生涯についてしらべてみました。
信玄の侵攻
義清は文亀元年(1501年)に北信濃の武将・村上顕国の子として葛尾城に生まれました。信玄が大永元年(1521年)の生まれにつき一世代程前の生まれと言えます。
義清は永正17年(1520)頃に父・顕国の跡を継いで当主となると、周囲の海野氏、大井氏らを破って支配地を拡げていました。
その後、義清が高梨氏との戦いを進めている中、佐久を支配下に置いて更なる侵攻をしてきたのが、甲斐の武田氏でした。
信玄はこれに先立ち、父である武田信虎を追放して武田の当主の座に就いていました。
上田原の合戦
信玄は佐久を手に入れた余勢を駆って、天文17年(1548)に小県の南部へと侵攻しました。
この頃の信玄は、諏訪を平定し戦では連勝中でした。この信玄に対して義清が迎え撃ったのが上田原の合戦でした。
ここで信玄は思いがけない大敗を喫することになりました。
この合戦において義清は、武田勢の初鹿野伝右衛門を討ち取り、また諏訪郡代・板垣信方も上条織部が討ち取っています。更に武田勢は、甘利虎泰、才間河内守などの重臣も失うことになりました。
このとき義清ら村上勢は、一旦引いたと見せかけて武田勢を誘い込み、一気に逆襲にでたものと言われ、義清自も精鋭を引き連れて信玄の本陣まで突入したと言われています。
何とか内藤昌豊や馬場信春の奮闘で信玄本院は護ったものの、負傷を負わされ、武田勢は総崩れとなったと伝えられています。
砥石崩れ
信玄は、天文19年(1550年)に義清が高梨氏との合戦によって出陣した隙をついて小県の砥石城へと侵攻しました。
義清はこの信玄の出陣を知ると高梨氏と和議を結んで砥石城へと兵を向けました。
信玄もこの義清の動きに反応して、形勢は不利と見て退却に移りましたが、村上勢の追撃を受けて再び大敗を喫することになりました。
この戦いは後年「砥石崩れ」と呼ばれ、武田勢の有力武将であった横田高松や渡辺雲州を含め、凡そ1000名にも上る損害を出したとされています。
取れに対し義清ら村上勢の損害は200名弱であったと伝えられています。
真田幸隆の調略
義清に2度の大敗を被った信玄は力攻めを控えて、新たに武田家に仕官した真田幸綱(真田幸綱)による調略を行わせました。真田幸綱はあの有名な真田幸村の祖父にあたります。
小県の要衝にあった砥石城は、その調略によって天文20年(1551年)に武田勢が手にすることになりました。
幸綱の調略は砥石城の足軽大将・矢沢薩摩守が幸綱の弟であったことで、その内応によって成功したものと伝えられています。
この結果、義清の配下に対する支配力は著しく低下することになり、天文22年(1553年)には大須賀久兵衛尉が離反し、村上勢の多くの武将が武田氏に降ることになりました。
義清は居城・葛尾城を一時逃れるも、体勢を整えて信玄に備えました。信玄は一旦深志城まで後退すると、甲府に戻り再度そこから大軍を率いて侵攻してきました。
義清は信玄に太刀打ちできない事を悟り、越後の上杉謙信のもとへ落ち延びました。
上杉の家臣へ
その後、越後に逃れた義清は嫡男・国清とともに上杉の家臣となりました。国清は謙信の養子として迎えられると山浦を名乗ったとされています。
義清は永禄4年(1561年)に発生した第4次川中島の戦いに従軍し、武田勢と干戈を交えると、信玄の弟・信繁を討ったとも伝えられています。
義清はその後、元亀4年(1573年)に越後の根知城において病没、享年73歳でした。
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