表裏比興の者
真田昌幸(さなだまさゆき)は、幼少の頃より武田信玄の近習を務め、武田氏が滅ぼされると、臣従先を織田氏、北条氏、上杉氏、徳川氏とその時々の状況に応じて目まぐるしく変えて生き残りを図りました。
その様子をして、石田三成から「表裏比興の者」と呼ばれたと伝えられています。
この意としては、変幻自在で捉えどころがなく、強かであると言う、いわば賛辞にあたるものと考えられており、昌幸の武将としてのバランス感覚を評したものと伝えられています。
大阪の陣において「日の本一の兵」とも呼ばれた真田信繁(幸村)の父でもあった昌幸の生涯を調べてみました。
家督の相続
昌幸は天文16年(1547年)に真田幸隆の三男として生まれました。
父・幸隆はその少し前から武田信玄に仕えており、昌幸は天文22年(1553年)に武田家への人質として甲斐に送られたと伝えられています。
昌幸は15歳の永禄4年(1561年)、第4次川中島の戦いで初陣を果たしたとされており、このときは信玄の近習を努めたとされています。
昌幸はその後、信玄の縁戚にあたる武藤家へ養子に入り武藤昌幸を名乗ったとされ、信玄からの寵愛を受けていたことが窺われます。
昌幸はその後も武田家の武将として、北条氏との合戦や西上作戦に参加して武功を挙げましたが、元亀4年(1573年)4月に信玄が病没すると、翌天正2年(1574年)に父・幸隆も死亡してしまいます。
真田本家は、既に兄の真田信綱が継いでいました。
しかし、翌天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて信綱と昌輝の二人の兄が相次いで討死したことで、昌幸が真田の家督を継ぐことになりました。
臣従先の変遷
信玄の没後は跡を継いだ武田勝頼に従っていた昌幸でしたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田が滅ぼされると、織田に臣従することになりました。
しかし、その3ヶ月後の天正10年(1582年)6月に本能寺の変で織田信長が討たれると、主を失った旧武田領を巡って上杉、北条、徳川の三つ巴の争いが発生し、先ず昌幸は上杉景勝へと臣従しました。その後、北条が優勢と見るや北条氏直に従ったものの、次には徳川家康と結んで北条氏から離反しました。
しかしその後、真田が領地としていた沼田の扱いを巡って家康と対立すると、再び上杉景勝に与してその保全を図りました。
正に戦国の小大名としてその場その場で有利な勢力と結ぶという、弱者の知恵とも呼べる駆け引きでした。
第一次上田合戦
こうして天正13年(1585年)7月に第一次上田合戦と言われる、昌幸と徳川勢の合戦が勃発しました。
家康は北条氏直と手を結び真田を攻めました。北条勢は沼田城へと向かい、徳川勢は兵7000をを持って上田城へと攻め寄せました。
昌幸は、上田城下まで徳川勢を巧みに誘い込むと、わずか2000余りの手勢で奇策を用いて翻弄し、徳川勢の約1200名をも討ち取ったと伝えられています。
その後も徳川勢は、上田城への攻撃機会を図っていましたが、重臣の石川数正が突如として豊臣方に出奔するという事態が起こったことで兵を引いたと伝えられています。
この合戦において、寡兵で大軍の徳川勢を退けた昌幸の武名は一躍天下に知られることになりました。
豊臣に与した 真田昌幸
その後昌幸は、景勝が豊臣秀吉に臣従したことで自らも豊臣政権に従うこととなりました。後に家康も同様に臣従し、関東に移封されると昌幸はその配下の大名とされました。
その後、秀吉が没すると石田三成と家康の対立が表面化し、慶長5年(1600年)には会津の上杉討伐に家康が出陣した隙をついて上方で三成らが挙兵しました。
この三成の動きに、会津攻めを中止して兵を返した徳川勢は関ケ原の戦いへと進んでいきます。
このとき徳川の主力を率いて中山道を進んでいた徳川秀忠勢は、三成方に与した昌幸の上田城を攻めました。
第二次上田合戦
秀忠の率いた兵約38,000は、慶長5年(1600年)9月5日に昌幸・信繁(幸村)の守る砥石城・上田城に攻撃を開始しました。
砥石城にあった信繁は、徳川方についていた兄・信之と争うことをせずに上田城に撤退します。
こうして昌幸と信繁は上田城に籠城する策を取りましたが、その兵はわずかに2000程度であったとされています。
しかし昌幸は、これらの兵を用いた奇策を繰り出し、およそ20倍にも上る徳川勢からまたもや城を守り抜いたと伝えられており、この合戦は第二次上田合戦と呼ばれています。
秀忠は西へと先を急ぐため上田城の攻略を断念し、同月の9日には進軍を再会しましたが、ここで足止めされた結果、同月15日の関ケ原の本戦に間に合わなかったと伝えられています。
こうして2度にわたり徳川の大軍を相手に善戦した昌幸でしたが、関ケ原の後、追放された九度山の地で慶長16年(1611年)に病没してその生涯を終えました。
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