伊達家の参謀格の武将 片倉小十郎
片倉景綱(かたくらかげつな)とは、東北の覇者となった伊達家の輝宗・政宗父子の2代にわたって仕えた武将です。
景綱は通称を「小十郎」として知られている人物で、この通称は後に片倉家の当主が用いる名にもなりました。
政宗に近侍した景綱は伊達家における参謀格の武将となり、後の豊臣秀吉による小田原北条攻めに際し、最終的に秀吉に臣従する道を選ばせたとも伝えられています。
姉が政宗の乳母
景綱は、弘治3年(1557年)に現在の千葉県市川市の宮の神職を務めた、片倉景重の次男として生まれました。
ちょうど政宗よりも10歳年長にあたります。その後、両親を亡くした景綱は姉であった喜多に育てられました。
姉の喜多と景綱は約20歳程も年が離れていたとされ、どちらかというと姉妹というより親子のような関係だったそうです。この喜多が政宗の乳母となったことで、伊達家と景綱の縁が生まれました。
景綱が注目されるようになったのは、当時の伊達家の城下町米沢で起こった火災に際しての対応だったとされています。
そのときの景綱の機転の利いた行動が認められて、当初は輝宗の小姓として仕えることになり、後の天正3年(1575年)に政宗に近侍することになりました。以後、景綱は政宗の片腕、参謀格の武将として重きをなすことになります。
人取橋の戦い
その後、景綱は輝宗の死後に家督を継いだ政宗と共に余多の伊達家の戦に従軍しました。殊に天正13年(1585年)の人取橋の戦いは、佐竹氏・蘆名氏ら連合軍兵約30,000に対し、伊達家は兵約7,000という圧倒的な数的不利を強いられたな戦でした。
この時、政宗が敵を深追いし過ぎて包囲されるという窮地に陥った際に、景綱は自らが政宗の振りをして敵兵を引き付け、無事に政宗を逃すことを成功させたと伝えられています。
その後も景綱は政宗の奥州制覇に向けた戦において、武力のみならず調略等でも大きな貢献をしたとされています。
苦渋の秀吉への臣従
景綱は天正18年(1590年)の秀吉の小田原北条攻めにおいては、家中の伊達成実らが主戦論を唱える中で冷静に豊臣の実力を推し量り、苦渋の決断ながら政宗に秀吉に与すべきことを進言しまいした。
これにより輝宗の代からの北条家との協力関係は終わったものの、小田原攻めへの出陣が遅かったこと、前年の天正17年(1589年)に会津へ伊達家が侵攻したことなどから、秀吉の伊達家に対する印象は捗々しいもにではありませんでした。
このため秀吉が行った奥州仕置において、伊達家は最大版図で約150万石に達していた領土を約半分となる72万石まで削られる結果となりましたが、家としての存続は維持できました。
因みにこの時、秀吉は景綱の才を認めて5万石を与えて直臣にしようとしましたが、景綱は伊達家への忠義を通してその誘いを固辞したと伝えられています。
また景綱は伊達家においては他家との折衝役となる取次を務めて、政宗の出した外交上の文書の多くに景綱が記した文書も添付されています。
片倉景綱 の最期
秀吉の没後、徳川家康に接近して家名の存続を図った政宗は慶長7年(1602年)に仙台藩の初代藩主となりました。
このとき城は一国に一城とするお触れが出されましたが、景綱は特別に仙台藩内の白石城を任されその城主を務めました。
その後景綱は慶長19年(1614年)の大阪の陣に際しては病床にあり出陣出来ず、替わりに息子の重長が従軍しました。
重長はこの戦で敵将・後藤基次を討ち取る武功を挙げて片倉家の名を天下に示します。
そして翌年の元和元年(1615年)に景綱は享年59歳で世を去りました。
そもそも伊達政宗は東北の覇者だったか・・・?