皆さん、織田上総介信長、という人は聞いたことはあるだろうか?
これは皆さんご存知の織田信長のことである。ではこの上総介(かずさのすけ)とは一体なんなのか?
今回はこの上総介に代表される武家官位について解説していこうと思う。
そもそも官位とは?
官位というのは簡単に言えば今で言うところの課長や係長みたいな役職のことを指す。この官位が作られたのは奈良時代。
大宝律令が成立した時であるが、この中には二官八省という2つの省庁(太政官・神祇官)と8つの省庁(中務・式部・兵部・刑部・宮内・大蔵・治部・民部)から構成されている。さらにこの他にも弾正台や近衛府などの役職があった。
戦国時代の武家官位
戦国時代になると本来なら幕府経由で官位をもらうものだったのが、応仁の乱によって幕府の権力が衰えると戦国大名が朝廷に直接交渉して官位を得ることが増えるようになった。
朝廷も本来ならば大名如きに官位など与えたくないのだが、この頃の朝廷の財政は破綻していたようなもので、金さえ払えば官位を与えるようになっていた。この状態をうまく使ったのが当時日明貿易で莫大な利益を上げていた大内家である。
大内家の当主の一人である大内義隆は莫大な金を朝廷に献上し、軍政を司るトップである兵部卿に就任し、さらに九州の勢力を増大させるために大宰大弐という太宰府の官職を与えられた。このように戦国大名において下剋上を果たした大名は朝廷から官位をもらって自分の行動を正当化していくのだ。このような例は他にも徳川家康の三河守などがこれに当たる。
また、この頃には朝廷に官位を与えられていないのに勝手に官位を名乗る僭称(せんしょう)ということをし始める。上に述べた織田上総介信長のこの僭称の一つだ。
なんで尾張の大名であった信長が上総(千葉県)の官位を名乗ったのかはいまだにわかっていない。しかし上総は通常的に親王が治めるようになっていたのである。
江戸時代の武家官位
江戸時代に入ると江戸幕府は官位を使って大名を統制する動きにでる。例えば1611年に武家の官位は本来の朝廷の官位とは別のものとすると宣言。さらに禁中並公家諸法度によって制度化された。これによって朝廷内に武家が混ざって混乱が生じる心配がなくなる。
さらに江戸幕府はその官位をランク付けとして利用し、一般的な大名は従五位下か従四位下、国持大名は侍従、水戸徳川家は中納言(水戸黄門の黄門はこの中納言が由来である)、紀伊・尾張徳川家は大納言という風に制定した。
しかし、疑問に思わないだろうか?例えば会津藩の松平家は会津のある陸奥守ではなく肥後守と名乗っている。しかしこれには実は理由があり、なんと国持大名以外の藩はその藩がある国の官位を名乗ってはいけないことになっていたのである。そのため国持大名ではない会津藩は陸奥守を名乗ることはできず、それに見合った国である肥後守を名乗っていたのだ。
江戸時代の武家官位の暗黙のルール
しかし、大名は自分の国以外の官位だったらなんでもいいわけではなかった。
例えば徳川家ゆかりの地や将軍の直轄地である三河、武蔵、は将軍家の直系しか名乗ることはできず、さらに関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対していた石田三成の官位であった治部少輔は徳川家に配慮して名乗る大名はいなかった。
さらに、裏切り者の代名詞の人物の官位(松永家の右衛門佐、陶晴賢の尾張守、実兄を追い落とした山県昌景の右兵部佐など)は名乗ることはあまりしなかった。だがしかし、全部の裏切り者の官位を名乗らなかったのかというとそれはなく、明智光秀の日向守や小早川秀秋の左衛門督などは普通に名乗っていたとか。
〇〇守などは特に大名たちが自由につけることができたのだが、大名たちはこのように徳川家に配慮したり、裏切り者の官位をつけないようにするなど、さまざまな暗黙の了解を守っていることがこれでうかがえる。
最後に
武家官位というのは戦国時代、江戸時代にとって非常に重要なものの一つである。
もし時代劇を見ることがあったら、人の名前に注目して官位を探してみると、また違う面白さが感じられるかもしれない。
平安時代を中心に上代から中近世に至る我が国全官職の官名・職掌を漢籍や有職書によって説明するだけでなく、当時の日記・古文書・物語・和歌を縦横に駆使してその実態を具体的に例証した不朽の名著↓
この記事へのコメントはありません。