武田氏の副将格の武将
武田信繁(たけだのぶしげ)は戦国最強の呼び声も高い武田信玄の同母弟にして、武田勢の副将格を務めたとも伝えられている武将です。
信繁は武田勢の宿敵・上杉謙信との最大の激戦となった第四次川中島の合戦において、上杉勢の猛攻から信玄の本隊を守り、自らは討ち死にして果てたと伝えられています。
このとき信繁37歳、武田流軍学を伝える書として知られている「甲陽軍鑑」でも、自身も武田四名臣の一人に数えられた名将・山県昌景が内藤昌豊と並ぶ武田の将として信繁の名を挙げています。
父からの寵愛
信繁は大永5年(1525年)に父・武田信虎の四男として生を受けました。異母兄にあたる信玄より4歳下にあたります。
巷説では父・信虎は嫡男であった信玄ではなく信繁を寵愛し、武田家の家督を相続させるつもりであったとも伝えられています。
こうした状況の中で信玄が先手を打つ形で信虎を追放し、武田氏の頭首の座に就きました。
しかし織田信長や伊達政宗など、余多の戦国武将達が兄弟間で骨肉の争いを繰り広げた時代にあって、信玄と信繁にはそうしたわだかまりはなかったようで、その意味では稀有な例であったと考えられます。
第四次川中島の合戦
信繁は永禄4年(1561年)9月、第四次川中島の合戦において享年37で壮絶な討ち死にを遂げたとされています。
この合戦の詳細な実態は分かっていませんが、巷説では上杉謙信が武田の軍師・山本勘助が献策した啄木鳥の戦法を喝破して、武田勢の本隊まで攻め込んだとされている戦いです。
後年の軍記物などを始めとする巷説では、この時の武田勢は約2万、対する上杉勢は約1万3千の兵数だったとされています。
武田勢はこの内の1万2千を別動隊として謙信が布陣した妻女山に向かわせ、残りの8千で山を下りてくる上杉勢を挟撃する作戦を採りました。しかしこれを見破った謙信が一気に妻女山を下って、麓の八幡原で待機していた信玄の本隊に奇襲をかけ、数的優位もあって武田勢を窮地に追い込んだと言われています。
巷説の合戦模様
この上杉勢の奇襲による猛攻の中、信繁は信玄本隊を守るための盾となって戦場に散ったとされています。
しかしこの説には疑問も投げかけられています。先ずもって別動隊の数が本隊より多いという事があり得るのかという指摘です。
もっともな疑問ですが、そう言う設定にしないと武田勢が少ない数の上杉勢に押されて、信繁を始め献策した山本勘助も討ち取られてしまったことになるため、それでは武田側にとってあまりにも都合が悪いということで脚色を加えられたものではないかと思われます。
巷説では上杉勢に押し込まれた武田勢に、ようやく駆け付けた別動隊が合流したことで、数的優位が逆転して後半戦は武田勢が優位に立ち、分が悪いことを悟った謙信が兵を引いたとされています。
因みに、信繁の討ち死にを知った信玄がその死を悼んだのは言うまでもありませんが、敵である謙信すらも同様であったと伝えられています。
武田信繁家訓
信繁の名を後年に伝えたものとして、信繁が子・信豊に宛てた99ヶ条からなる「武田信繁家訓」があります。
この書が江戸期の太平の世となった時代において、武士の矜持を体現したものとして多くの武士達に読まれることになりました。
これは幕府を開いた徳川氏が、かつて三方ヶ原の戦いで完敗を喫した武田氏の軍学を学ぶことを推奨していたためでもあり、多くの武士たちから信繁こそが武人の鑑とされるようになったものと伝えられています。
また信繁を深く慕っていた当時武田氏の家臣であった真田昌幸は、自らの次男に同じ名を付けました。これが後に大坂の陣で徳川家康の本陣まで攻め込んだとされる「日の本一の兵」、真田幸村です。
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武田信繁って母が大井の方なので武田信玄の同母弟ですが…
異母弟ではないですよ
修正させていただきました!ご指摘まことにありがとうございます。