稲葉一鉄とは
稲葉一鉄(稲葉良通)は「頑固一徹」という言葉の語源となった人物と言われている。美濃三人衆の一人で土岐家・斎藤家・織田家・豊臣家に仕えた戦国武将である。
織田信長から戦の褒美として「長」の一字を授けようと言われたが、断って褒美を徳川家康にあげてくださいと言った信念の男である。
徳川幕府3代将軍・家光の乳母である春日の局の外祖父で、養祖父であった武将、稲葉一鉄について追っていく。
稲葉一鉄の生い立ち
稲葉一鉄は美濃国の守護の一族である土岐頼芸(ときよりあき)の家臣・稲葉通則の6男として永正12年(1515年)に生まれる。
一鉄の上には5人の兄がいたために、出家して美濃の崇福寺で修業していた。
当時の師匠は快川紹喜で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言うセリフが有名な僧である。
大永5年(1525年)の浅井亮政との牧田の戦いで、父と5人の兄全員が戦死したために、一鉄は還俗して曽根城主として家督を継ぐことになった。
美濃の三人衆
家督を継いだ一鉄は土岐頼芸のもとで頭角を現していくが、天文11年(1542年)主君の頼芸が斎藤道三によって追放されてしまうと、今度は道三の下につくようになる。
道三に仕えた一鉄は安藤守就(あんどうもりなり)・氏家卜全(うじいえぼくぜん)と共に「美濃三人衆」と呼ばれる重臣にまで登り詰める。
一鉄には深芳野(みよしの)という妹がいた。深芳野はかなりの長身で美濃一の美人と評判で頼芸の妾であったが、大永6年(1526年)12月に道三の側室となった。
深芳野は大永7年(1527年)6月に道三の嫡男・義龍を生んだが、父親は道三ではないとの憶測を呼んでしまう。
弘治2年(1556年)4月、斎藤家の家督を継いだ義龍は、自分の廃嫡を画策する道三との間で長良川の戦いが起きる。
一鉄ら美濃三人衆は義龍の味方となり、旧土岐家の家臣たちも義龍につき、義龍軍は17,500人で道三軍2,500人を圧倒し、道三は討死する。
稲葉山城乗っ取り事件
弘治2年(1556年)義龍が35歳の若さで急死すると、龍興(たつおき)がわずか14歳で跡を継いだ。
龍興は行状が良くなく、美濃三人衆の言うことを聞かなかった。それを知った隣国の尾張の織田信長が美濃攻めを本格的に始める。
斎藤勢は当初こそ織田勢を撃退していたが、龍興は酒に溺れ政務をおろそかにしたために家臣の信頼を得ず、明智光秀・斎藤利治・森可成・酒井政尚・堀秀重らが織田に寝返る。
見かねた安藤守就は娘婿・竹中半兵衛と共に稲葉山城乗っ取り事件を起こし、龍興の目を覚めさせようとした。
稲葉山城乗っ取り事件とは、竹中半兵衛がたった16人で一夜にして稲葉山城を乗っ取った事件である。
家督を継いだ龍興は、美濃三人衆ら道三たちからの重臣を遠ざけ、自分の言うことを聞くものだけを重用していた。
そこで永禄7年(1564年)1月に、竹中半兵衛は龍興から逆心の疑いをかけられたために、弟を稲葉山城に人質として差し出した。
半兵衛は弟に2月になったら仮病になれと命じており、弟は仮病を実行する。2月2日になると半兵衛は16名の共を連れて稲葉山城に弟の見舞いに行った。
半兵衛たちの格好は軽装で、持っていたのは幾つかの長持ち(長方形の箱)だけだったが、実は長持ちの中身は武具だった。
2月6日の夜、半兵衛たちは見張りの斎藤秀成を斬り「竹中の兵が大勢で城内に攻め込んで来た」と吹聴した。
城内は大混乱になり、着の身着のままで城を逃げ出す者が続出した。龍興も側近と状況を把握出来ないまま城を逃げ出し、半兵衛たち16名のクーデターは成功してしまう。
この時、半兵衛はわずか19歳であり、一夜での城の乗っ取り事件は美濃の国中に知れ渡った。
噂を聞いた信長は半兵衛に使者を送り、稲葉山城を織田に渡せば美濃の半分をやるという条件を提示した。
しかし、半兵衛は信長に回答をせず「信長の使者が頻繁に半兵衛を訪ねている」という噂を龍興の耳に入れる。
噂を聞いた龍興は半兵衛に頭を下げ城の返還を求めると、半兵衛は今回の乗っ取りに関わった全ての者の責任を問わないことを条件に城を開け渡した。
半兵衛は元々龍興を諌めるために乗っ取り事件を起こしたので、この事件の後に隠居してしまう。
その後、信長の下で軍師として働いて欲しいと木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に懇願され「信長ではなく貴方の下なら働く」と木下藤吉郎の軍師となった。
頑固一徹
稲葉山城の乗っ取り事件で一度は龍興と美濃三人衆は和解したが、秀吉が墨俣城を築城し斎藤家はどんどん衰退していく。
永禄10年(1567年)8月1日、稲葉一鉄ら美濃三人衆はとうとう龍興を見限り織田家への内応を約束し、信長は稲葉山城を落として美濃を手中にする。
織田信長に仕えることになった一鉄は、永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで先陣を任され、元亀元年(1570年)の浅井長政との姉川の戦いでは徳川家康と共に、信長の危機を救う戦功を挙げる。
信長から戦功一番とされ、信長の名前から褒美として「長」の一字をくれてやるから「長通」と名乗れと言われるが、一鉄は「戦功を挙げたのは家康なので褒美は家康に」と信長の申し出を断った。
主君から名前の一文字をくれてやるという申し出を断るなど当時は考えられないことで、しかも相手はあの信長である。
首をはねられる可能性もある中で、信長に対して自分の意見を曲げなかった。
また、天正2年(1572年)信長は「一鉄が信長を裏切る」との讒言を信じて、一鉄を殺そうと茶会に呼んだ。
そこで一鉄は茶室にあった禅僧の虚堂智愚の墨蹟「送茂侍者」(そうもしじゃ)という詩をを読み下しながら、自分の無実を信長に訴える。
信長は一鉄の学識の高さに感嘆して「あまりにも感激したので真実を話すと、今日はお前を殺そうとしていたがお前は無実だ」と話すと一鉄は「死罪を助けて有難うございます、実は私も殺されるかと思い、懐剣を忍ばせて一人位は道連れにしようかと考えておりました」と懐剣を見せた。
信長に対しても「相手が誰であれ自分の思ったことを貫き通して最後まで意見を変えない」という一鉄の性格は、違う目線では「頑固者」とも言える。
そこから転じて、稲葉一鉄=頑固者、「頑固一徹」という言葉が生まれたとされている。
一鉄は長篠の戦い、加賀の一向一揆、伊勢・長島城の一向一揆など数々の戦で武功を挙げるが、天正7年(1579年)信長に報告をしないで勝手に家督を嫡男・貞通に譲ると、信長から「まだ早い勝手に隠居するな」と怒られた。
この時一鉄は65歳だった。
隠居しても不思議ではない年齢であるが、どれほど信長から信頼されていたかが分かるエピソードである。
豊臣家の家臣
天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、一鉄は美濃の国人衆に呼びかけて岐阜城に甥・斎藤利堯(さいとうとしたか)を擁立して、明智光秀に対して独立を保つ画策する。
落ちぶれていた元美濃三人衆の安藤守就が明智光秀と手を組んで稲葉領内に攻め込んでくると、一鉄はその軍を撃破して守就らを敗死させる。
突然の信長の死で美濃では諸将が衝突し合うと一鉄は堀池半之丞と戦い、その領地を支配下に置く。
そして謀反人明智光秀の重臣・斎藤利三の娘である・お福(春日局)を稲葉家に引き取り成人になるまで面倒をみた。(※稲葉一鉄は春日局の外祖父である)
天正10年(1582年)の清洲会議では織田信孝が岐阜城を相続し美濃は信孝の支配下になるはずだったが、一鉄はそれを拒み、羽柴秀吉に仕える道を選んだ。
秀吉の下では賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにも参戦して武功を挙げる。
岐阜城が池田恒興の支配下になると、一鉄は池田の配下になることを拒む。しかし秀吉から和解を勧められてそれに従う。
天正13年(1585年)秀吉が関白になると、一鉄は法印に叙されて「三位法印」と称した。
一鉄は武勇だけではなく茶道や能を好み、医学にも関心があり「稲葉一鉄薬方
天正16年(1588年)11月19日、74歳で死去した。
天下人たちから愛された武将
姉川の戦いの前に、織田信長は徳川家康に「我が手の者から誰でも連れて行け」と気前よく申し出たという。
家康は一度は断るも信長がさらに申し出たので、家康は「稲葉一鉄一人」と言ったという。この話は織田家の中でも評判となり、皆が一鉄を羨んだという。
長篠の戦いでは、朱槍朱具足で味方を鼓舞しながら奮戦し、信長から「今弁慶」と称賛された。
間者を見破る・味方につける能力が高く謀略にも精通していて、敵の間者からも「誠の仁者」と称されるほどの人物でもあった。
斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉の3人から全幅の信頼を寄せられ、徳川家康からは「ただ一人」と評されるほどの武将は稲葉一鉄しか居ない。
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