樋口定次(又七郎) とは
戦国時代の後半、二の太刀いらずの剛剣の使い手と称された剣豪が二人いた。
その1人は示現流の創始者・東郷重位(とうごうしげい)、もう1人の剣豪が剣鬼と呼ばれた馬庭念流・樋口又七郎(ひぐちまたしちろう)である。
島津藩の剣術指南役になった示現流の東郷重位は有名であるが、馬庭念流の使い手・樋口又七郎はあまり知られてはいない。
木剣で大きな岩を真っ二つに割り、剣鬼と称された剣豪・樋口又七郎について追っていく。
念流への思い
樋口又七郎は天文23年(1554年)上杉家に仕える上州多胡郡馬庭村(現在の群馬県高崎市吉井町馬庭)の、樋口家第17代の当主として生まれる。
又七郎の本名は「樋口又七郎定次」であるが、ここでは又七郎と記す。
元々樋口家は、木曽義仲四天王の1人である樋口兼光を祖とする家であった。
樋口家は第11代の当主・樋口兼重が相馬義元の「念流」を学んでその高弟となり、それから樋口家は念流を家伝としていた。
しかし、第13代当主の樋口高重が上州多胡郡馬庭村に移り住んだために、この地で盛んな「新道流」を家伝とするようになった。
又七郎も家伝の「新道流」を修め、その流れを組む剣聖・塚原卜伝の「新當流」も修めたが、それだけでは満足がいかず、かつての家伝である祖先が修めた念流への思いを巡らしていた。
小さな田舎町であるがゆえに他流試合の機会も少なく、又七郎が試合で少しでも実力を見せてしまうと相手に大ケガをさせてしまい遺恨になることも多かったという。
しかし、当主でありこの地を離れることが出来ない又七郎は、祖先が学んだ念流を学んでみたいと強く思った。
念流とは、室町時代に相馬義元が創始した日本兵法三大源流の一つで最も古い流儀とされ、剣術の他に鎖鎌・棒術・捕縛術などを伝えていたという。
念流との出会い
そんな時、又七郎が住む馬庭村に友松偽庵という眼医者がたまたまやって来た。
そして又七郎の親戚で剣術仲間の小串清兵衛と友松偽庵が道場で試合を行うことになり、なんと友松偽庵が圧勝した。
小串清兵衛が一介の眼医者に簡単に負けたことに又七郎は驚いた。
事情を詳しく聞いてみると、なんと友松偽庵は赤松三首座系念流の、正当な第7代継承者であった。
又七郎はすぐに友松偽庵に弟子入りを志願し、修業の末に入門から17年後の天正19年(1591年)に、念流の印可を与えられた。
それからも修業を重ね、慶長3年(1598年)に伝書を受けて正当な念流第8代の継承者となり、馬庭村に道場を開き「馬庭念流」の開祖となった。
又七郎の道場は評判になり、多くの門弟が集まるようになったという。
群馬県高崎市吉井町馬庭にある、馬庭念流道場。※草の実堂編集部撮影
木刀で岩を割った伝説
又七郎の馬庭念流の噂が広がり、慶長5年(1600年)村上天流と名乗る村上権右衛門と又七郎が、木剣で御前試合を行うことになった。
村上天流は木剣の中に真剣を仕込んだ物を使うとの噂があり、又七郎は試合の祈願のために山名八幡宮で21日間の参篭を行った。
満願の日、又七郎は持っていた枇杷(ビワ)の木剣で大きな岩を叩いた。すると岩は真っ二つに割れたという。
この話は伝説ではなく本当のようで、現在の群馬県高崎市山名町にある山名八幡宮には、又七郎が割った「太刀割ノ石」が現存している。
上記写真が山名八幡宮にある「太刀割ノ石」。※草の実堂編集部撮影
御由緒板にも
「たちわりの石」
慶長五年(1600)高崎藩主、井伊直政の許しを得て馬庭念流中興の祖、樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり、当社に神助を祈り参篭し二十一日目の満願の日、枇杷の木剣で断ち割ったと云われ、その後烏川畔に於いて見事、天流を破った
と記述があった。
井伊直政にきちんと許しを得ての正式な決闘だったことがわかる。
又七郎は山名八幡宮で21日間祈願した後、高崎城付近の烏川(からすがわ)にて村上権右衛門と決闘した。
ここから高崎城までは徒歩だと3時間ほどである。
又七郎は岩をどのようにして割ったのであろうか?
2つの岩が並んでいたが、割れて2つになったものなのか?切り口はどこなのか?
色々な角度から検証してみたが、はっきりとは分からなかった。
樋口定次と村上天流はなぜ決闘することになったのか?
通説によると、武芸者の村上権右衛門は高崎城下で新たに天真流道場を構え、評判を上げることで井伊家への士官を望んでいた。
しかし元々地元で評判だった又七郎の馬庭念流の名声には勝てず、試合で決着をつけようにも馬庭念流は専守防衛を心得としており、他流試合は禁止されていた。
馬庭念流の名声を快く思わない天流の門人たちは、次第に馬庭念流を「田舎剣法」「百姓剣術」などと揶揄するようになっていった。
それでもしばらくは何も起こらなかったが2年ほど揶揄が続くと、馬庭念流の門人の中に「破門されても良いので試合をさせてほしい」と言い出す者が現れはじめた。
互いの弟子の暴走を抑える為に、樋口定次(又七郎)と村上天流(権右衛門)は、仕方なくトップ同士の試合に臨んだのではないかと推測されている。
烏川(からすがわ)での決闘
樋口又七郎と村上権右衛門の決闘は高崎烏河原で行われ、開始早々に噂通り真剣を仕込んだ木剣が又七郎を襲った。
この一撃をギリギリでかわした又七郎は、真っすぐに村上権右衛門の頭上に木剣を振り下ろした。
村上権右衛門はこの初太刀を十文字の形で受け止めようとしたが、又七郎の剛剣はそのまま脳天を砕いてしまった。
又七郎は決闘後に「私の木剣はかわすか切り落とすしかないのに、引いて受け止めようとしたからだ」と語ったという。
たった一撃で決闘を終わらせた又七郎は「二の太刀いらずの剣鬼」と称されるようになった。
念流中興の祖とされている樋口又七郎の剛剣は、一度受け止められたにもかかわらず、相手の脳天をかち割った。
現在にも伝わる念流の演武の中には、十文字に受け止められた状態から押し切る技が伝えられている。
又七郎の決闘は「念流」の中でも重要な出来事であり、室町時代から現在まで続く念流の中で、又七郎が中興の祖とされているのも納得がいく。
修業に終わりはない
決闘後、又七郎は樋口家当主の座と念流第9代継承者の座を弟・樋口頼次に譲り「修業に終わりはない」と言って、彦根に住む師・友松偽庵のもとへ旅立ったという。
仕方がなかったとはいえ、禁止されていた他流試合を行ったことへのけじめをつけたと考えられる。
この後の又七郎の消息は不明だが、樋口家と縁がある松本家には「又七郎は彦根で右京という名の者と戦い敗死した」と伝わっているという。
おわりに
戦国時代の剣豪の多くは自分の流派を神格化するために、神社などで修業しながら満願の日に開眼している。
樋口又七郎も同様に、満願の日に岩をも砕く剛剣・初太刀を開眼した。
又七郎は17年の修業の上にようやく念流の継承者となったが、他流試合によりその地位を捨てなければならなくなった。
しかし、そのことで示現流・東郷重位と並び称される剣鬼として名声は上がり、又七郎の「初太刀」は伝説となった。
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