二人の天才軍師 両兵衛
豊臣秀吉は、戦国の世で最初に天下統一を成し遂げた。
そして秀吉には全幅の信頼を置いて頼りにした二人の天才軍師がいた。
一人は若き日の秀吉を支えた「竹中半兵衛(たけなか はんべえ)」。
織田信長が卓越した才覚を認め、家臣に欲しがったほどの逸材である。
もう一人はその竹中半兵衛の後を引き継ぎ、秀吉を天下人へと導いた「黒田官兵衛(くろだ かんべえ)」である。
果たして最強の軍師はどっちだったのか?
戦術、交渉術、人間力、危機管理能力、秀吉からの信頼度、という5つの観点から筆者なりに個人的見解も含めて比較検証してみた。
竹中半兵衛とは
竹中重治(通称:半兵衛)は、天文13年(1544年)美濃斎藤氏の家臣で大御堂城主・竹中重元の嫡男として生まれる。
斎藤道三が戦死した長良川の戦いが初陣で道三に味方していたが、その後は斎藤義龍・龍興に仕えた。
温和な性格、細身で色白、まるで女性のような面立ちだったという。
軍師としては「敵を制すること神の如し」、三国志の諸葛孔明に例えられて「今孔明」と呼ばれていた。
黒田官兵衛とは
黒田孝高(通称:官兵衛)は、天文15年(1546年)播磨国姫路の黒田職隆の嫡男として生まれた。
父・職隆は小寺政職に仕え、官兵衛は政職の近習として仕えた。
小寺家では当時、毛利と織田、どちらにつくか選択を迫られており、黒田官兵衛だけが当時飛ぶ鳥を落とす勢いのある織田につくのが得策と判断して重臣たちを説得。
小寺家は信長に臣従し家臣・秀吉に仕えた。
軍師としては「戦国一の切れ者」と恐れられていた。
※ここからは竹中半兵衛は「半兵衛」と記し、黒田官兵衛は「官兵衛」と記させていただく。
①戦術
半兵衛の戦術
半兵衛は秀吉に仕える前は、美濃の斎藤龍興の家臣であった。
半兵衛は永禄7年(1564年)2月、主君・龍興に対してクーデターを起こす。
難攻不落と呼ばれた稲葉山城をたった1日、しかもわずか17人で落とし、主君・龍興を城から追い出し占拠したのだ。
主君・龍興は酒に溺れ政務をおろそかにしており、重臣たちを遠ざけていた。
半兵衛は龍興から逆心の疑いをかけられていたために、弟を稲葉山城に人質として差し出していた。
半兵衛は弟に「2月になったら仮病になれ」と命じ、弟はそれを実行する。
半兵衛は16名の供を連れて、稲葉山城に弟の見舞いに出掛けた。
半兵衛たちの格好は軽装で、持っていたのは幾つかの長持(長方形の箱)だけだったが、実は中身は刀などの武具であった。
入口で止められた時には「中身は見舞いの品である」と説明し、簡単に城に持ち込むことに成功した。
2月6日の夜、半兵衛たちは見張りの斎藤秀成を斬り「竹中の兵が大勢で城内に攻め込んで来た」と吹聴した。
城内は大混乱となり、着の身着のままで城を逃げ出す者が続出して、龍興と側近たちも状況を把握出来ないまま城を逃げ出してしまう。
わずか17人で城を奪取することに成功したのである。
そして待機していた義父・安藤守就の2,000人の兵に合図し、安藤軍が攻めてくると龍興はどうにも出来なくなってしまい、半兵衛のクーデターは成功した。
この時、半兵衛はわずか21歳(※19歳という説もある)であったという。
織田信長が長年攻めあぐねていた稲葉山城をたった1日・たった17人で落としてしまった。
信長は半兵衛にこう持ち掛けた。
「稲葉山城を明け渡すならば美濃国を半分与えよう」
しかし、半兵衛はこれを拒絶し、なんと半年後には反省した主君・龍興に稲葉山城を返してしまった。
半兵衛に惚れ込んだ信長は、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を使ってなんとか半兵衛を家臣にしようとした。
秀吉は渋る半兵衛のもとに足しげく通い、3度目で口説き落としたとされているが、この話は中国の三国志で劉備玄徳が諸葛孔明を3度目(三顧の礼)で口説き落とした話をもとにした創作である。
本当は信長が美濃を平定した後に、美濃の家臣団の多くが信長の家臣となり、半兵衛もその中に含まれ秀吉の与力となったのだ。
与力とは信長の直接の家臣でありながら、軍事行動の時には秀吉軍の一員として働くという身分であった。
こうした経緯で半兵衛は秀吉に仕えることになった。
半兵衛の戦術 その2
近江・浅井長政を攻める小谷城の戦いで、秀吉と半兵衛は共に小谷城近くの横山城にいた。
長政は横山城攻略のために、あたかも別の場所に向かう振りをして横山城の脇を通過した。
これにつられて出て来た秀吉軍を、長政は反転して迎え撃とうとしていた。
秀吉はこの策にまんまと引っ掛かり出撃命令を出したが、半兵衛は長政の狙いを見抜き秀吉に「すぐに兵を引き揚げて私に1,000の兵を貸して欲しい」と進言した。
半兵衛は秀吉軍の出撃を止めさせて、1,000の兵で近くの山中に鉄砲隊をすみやかに配置した。
なかなか出陣しない秀吉軍に業を煮やした長政軍が横山城に接近すると、半兵衛はそれを不意打ちして見事に撃退した。
いよいよ小谷城攻めも大詰めを迎え、後は小谷城を落とすところまで来たところで、半兵衛は信長に呼び出され「城内にいるお市と娘たち3人を救出せよ」と難題を命じられた。
信長の妹であるお市の方は長政と仲が良く、小谷城落城の時には一緒に自害してしまうことも十分考えられた。
ここで半兵衛は情報収集に動き、反・信長に積極的なのは長政の父・久政で、長政は仕方なく信長を裏切ったという情報を得た。
しかも、長政とお市の方は本丸にいて、父・久政は小丸という離れた場所にいることも分かった。
半兵衛は本丸と小丸の間にある京極丸を占拠して浅井親子の連絡網を断った上で小丸を攻撃。その間に本丸の長政のもとに使者を送り、お市の方と3人の娘たちを引き渡すように説得した。
小谷城は落城し、久政・長政親子は自害したが、お市の方と3人の娘たちは無事に引き渡された。
知略に長けた半兵衛の機転と戦術であった。
官兵衛の戦術
官兵衛は城攻めを得意としたという。特長ある3つの城攻めを紹介する。
最初は天正5年(1577年)福原城の戦いで、福原城には毛利方1,000人が籠城していた。
官兵衛は城の三方を囲み一方だけを空けておいた。この戦術は孫子の「囲師必闕(いしひっけつ)」と呼ばれ、四方を囲むと追い込まれた敵が予期せぬ力を発揮することがあるため、一方だけを空けておき死に物狂いの攻撃を避けるための策である。ここで官兵衛は、城から逃げる道と見せかけた場所に軍勢を配置し、敵を一網打尽にした。
次は天正9年(1581年)山名氏旧臣のおよそ2,000人の兵が籠城していた鳥取城攻めで見せた「渇え殺し(かつえごろし)」だ。
官兵衛は鳥取城を攻める1年前の秋に商人たちを派遣して、収穫されたばかりの米を通常の倍の値段で買い取っていた。
金に目がくらんだ農民たちは、鳥取城に納めるはずの米や備蓄米まで売り払ってしまったのだ。
この後、官兵衛が城下の村々を焼き払ってしまうと領民たちは鳥取城へ逃げ込んだ。
鳥取城は通常の倍近い4,000人ほどの人で溢れかえり、兵糧はすぐに底がつき、城内の人たちは家畜や馬までも食べたが、多くの人たちが餓死していった。
非情なまでの兵糧攻め「渇え殺し」に、4ヶ月ほどで鳥取城は開城され明け渡された。人肉を喰らうものが出るほど凄惨たる状況だったという。
最後は天正10年(1582年)備中高松城攻めで見せた「水攻め」である。
備中高松城は湿地帯の真ん中にあり、大軍が容易に近づくことが出来ず、秀吉軍は攻めあぐねていた。
そこで官兵衛は「水攻め」を決断。湿地帯の南に3kmに及ぶ堤防(高さ8m・奥行24m)を築き上げた。
官兵衛が「土嚢を(どのう)1袋・100文(現在の価値で約1,152円)で買い取る」と近隣の農民たちに呼びかけると、瞬く間に大量の土嚢が集まり、わずか2週間足らずで堤防は完成した。
そして、城の西側を流れる足守川を堰き止めた。その方法は、大量に石を積んだ舟を足守川に並べて一気に舟底に穴を開け、沈没させて川を堰き止めるというものであった。
この頃は梅雨の時期であったこともあり、湿地帯の水位は瞬く間に上昇して備中高松城は浸水した。
毛利方でも猛将と知られた城主・清水宗治は自害。秀吉と毛利の間で和睦が結ばれた。
※実はこの時に本能寺の変が起きていた。明智光秀が毛利へ信長を討ったという密書を間者に持たせていたが、長い堤防を守るために配置していた秀吉軍にその間者が捕まった。
秀吉と官兵衛は誰よりも早く本能寺の変のことを知り、秀吉は官兵衛に諭されてあわてて毛利と和睦を結び、明智光秀を討つために引き返した。(中国大返し)
半兵衛の戦術・官兵衛の戦術、共に甲乙つけがたいが、筆者としては、城攻めに関しては多彩な戦術を駆使した官兵衛が少しリードしているように感じた。
②交渉術
半兵衛の交渉術
半兵衛の交渉術が発揮されたのは、浅井久政・長政親子を攻めた小谷城攻めである。
信長と秀吉は、半兵衛に浅井家家臣たちの寝返り工作を命じた。
そして半兵衛は浅井家の重臣・堀秀村や宮部継潤らを信長に寝返らせた。
半兵衛は「戦わずして勝つ」ことを理想として、出来るだけ戦を避ける策を講じたという。
また半兵衛は、自分のことを良く思わない同僚たちとの交渉術にも長けていて、例えば相手を褒めちぎって喜ばせておいてから「もう少し足軽の位置を左にすると秀吉公は感心するでしょう」など、相手のプライドを傷つけず得になるようなアドバイスもしていた。
半兵衛は、人の心理をうまく使って思うままに相手を動かすことに長けていたのである。
官兵衛の交渉術
天正18年(1590年)小田原征伐において、官兵衛は長期に渡って籠城していた北条氏政・氏直親子を説得して無血開城させている。
武田信玄や上杉謙信でさえも落とすことの出来なかった天下の要塞・小田原城である。さすがの秀吉でもなかなか落とすことが出来なかった。
しかし北条親子も、味方の城のほとんどが降伏して勝ち目が無いことは分かっていた。
交渉役として出向いた官兵衛は、酒・二樽と魚・十尾を贈り届けたという。
五代にわたって100年以上もこの地を守り抜いて来た北条家に、敬意を示す意味で酒と魚を贈り懐柔しようとしたのだ。
北条はその返礼として鉛玉と火薬を贈り返して来た。鉛玉と火薬は「もう戦う気はない、北条は降伏する」という意思表示であった。
交渉に臨む際、官兵衛は礼装に身を包み、帯刀せずに丸腰で単身小田原城に乗り込んだという。
礼を尽くして説得にあたった官兵衛に対し、北条親子は小田原城を明け渡すことをついに承諾した。
筆者としては、半兵衛の「戦わずして勝つ」という理念は素晴らしいが、難攻不落の小田原城を無血開城させ秀吉を天下人とした官兵衛の交渉術が、実績としては上と思われる。
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この記事は大変面白い
秀吉が天下をとった理由が分かった
半兵衛に一票
この見解は公平ではないし、半兵衛がいなくては後の如水にはなっていない
若い頃の官兵衛は自尊心が強すぎて半兵衛にあってなければ大きな失敗をしていたと思う
個人的にはこんな記事は好き、半兵衛がもう少し生きて本能寺の変を知ったら、どうしていたのだろうか?
決着はいらないが最高の軍師は誰か?は面白いかも、草の実堂さん頼みますよ!
こんな視点で歴史もの書く人は歴史好きは皆思っているのに「筆者だってどっちか分からん」が正解かもしれないが、早死にした半兵衛を負けにするのはダメなの?ファンからすればいい記事だと思うよ。