③人間力
半兵衛の人間力
実は秀吉の軍師として2人が同時に仕えていた期間は4年間ほどであった。
官兵衛が秀吉について間もない頃、次々と毛利方の大名を織田方に寝返らせたことで官兵衛は秀吉から感状を送られていた。それを有頂天になって自慢しながら半兵衛に見せると、何と半兵衛はその感状を破いたという。
そして半兵衛は「こんなものを残しておいて見せびらかしても、そなたのためにならない」と官兵衛を諌めたという。
信長の家臣・荒木村重が裏切って毛利方につくことになり、村重と交流があって親しかった官兵衛は信長から説得を命じられて、村重の居城・有岡城に入った。
しかし村重は、説得に来た勘兵衛を捕えて牢に幽閉してしまった。
いつまでたっても戻らない官兵衛に信長は「官兵衛までも裏切ったか」と思い、人質として差し出されていた官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じた。
この時、これに断固反対したのが半兵衛だった。半兵衛は信長に「人質を殺せば官兵衛は深く恨み、完全に信長公の敵となるでしょう」と進言し、織田家にとって大きな損失になると直談判をした。
しかし信長はそれを聞き入れず、松寿丸を殺すように指示をした。ここで半兵衛は一計を案じて松寿丸を殺したことにして美濃の自分の屋敷に匿ったのである。
もし、このことが信長に知られれば半兵衛の命はない。しかし、半兵衛は一緒に秀吉に仕えているうちに官兵衛は絶対に裏切っていないと信じていたのだ。
そして1年後に官兵衛は有岡城から救出された。
官兵衛は、危険を負ってでも自分を信じ、息子を助けてくれた半兵衛に深く感謝したという。
官兵衛の人間力
官兵衛は「知謀をもって敵城を降参せしめ和議を調え、人を殺さずして勝事を好みたまう」を旨としていたという。
降参した敵の家臣も極力生かすように努め、望む者は自らの家臣として迎え入れることも多かったそうだ。
裏切り・だまし討ちが日常茶飯事の戦国時代で「官兵衛の言うことならば信用出来る、官兵衛ならば約束を反故にしない」と敵将も官兵衛の言葉に耳を傾けたという。
半兵衛も勘兵衛も人間力の高さを感じさせるが、半兵衛の「信長の命に背いてでも官兵衛の嫡男の命を守った」というエピソードで、筆者は人間力は半兵衛の勝ちとしたい。
④危機管理能力
半兵衛の危機管理能力
36歳で亡くなった半兵衛の危機管理能力についてのエピソードは、余り残ってはいない。
ただ、半兵衛は高い馬には乗らなかったという。乱世の世の中、いつでも危機に直面する時のために備えて高い馬を所有しなかったという。
安い馬を好んでいたのは、「緊急時にいつでも馬を乗り捨ててもいい」と思っていたからだという。
官兵衛の危機管理能力
備中高松城を水攻めにしていた時に、偶然秀吉は間者の密書によって主君・信長が討たれたことを知る。(本能寺の変)
泣き崩れる秀吉に官兵衛は「今こそ貴殿が天下人となる好機」だと告げた。
官兵衛の言葉で我に返った秀吉は、官兵衛に毛利との和睦を結ばせ、主君の仇・明智光秀を討つべく「中国大返し」を決断した。
もし、本能寺の変が起きたことを毛利が知ってしまえば和睦はなくなり追撃される危険性もあるが、官兵衛と秀吉は中国大返しを決行した。
秀吉と官兵衛は主だった重臣のみに本能寺の変のことを伝えた。そして石田三成ら後方支援を得意としていた武将たちに街道への松明(たいまつ)や握り飯などの準備の他、武器・弾薬と荷物になる重たい物は豊臣水軍を使って運ばせるように手配した。
強行軍を走り抜き、秀吉の居城・姫路城につくと、秀吉は兵たちに「これから信長様を討った明智光秀を倒して天下人となる」と告げた。
「ここで手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう」と兵たちの士気を高め「天下人となるのだからもう姫路城への籠城はない、ここには戻って来ないからこの城にある金銀などを兵たちに分け与える」と宣言した。
その金額は現在の価値に換算すると、約66億円という大盤振る舞いであった。
中国大返しは見事に成功し、士気を高めた秀吉軍は山崎の合戦で明智軍に大勝利した。
この件で秀吉は一気に天下人へと駆け上がっていった。
筆者とすれば、危険を恐れすぎずリスクをきちんと把握した上で、大胆な決断で秀吉を天下に導いたという点で、危機管理能力は官兵衛の勝ちである。
⑤秀吉からの信頼度
半兵衛の信頼度
天正6年(1578年)三木城攻めが半兵衛の最期の戦いとなった。
この戦いの最中に半兵衛は病に倒れてしまい、36歳という短い生涯を終えた。
秀吉は半兵衛の亡骸にすがりついて泣き崩れたという。
病弱であった半兵衛には野心がなく、如何に敵を攻めるかを考えた生粋の軍師であった。
私利私欲がなかった半兵衛は、秀吉が全幅の信頼を置ける数少ない家臣であった。
官兵衛の信頼度
山崎の合戦後、四国征伐、九州征伐と目覚ましい武功を挙げた官兵衛だが、秀吉から与えられたのは豊前12万石だけであった。
実はこんなエピソードがある。
家臣たちと談笑していた秀吉が「わしが死んだなら、誰が天下を取ると思うか?」と問いかけた。
家臣たちは徳川家康や前田利家など有力大名の名を挙げたが、秀吉は「違う!官兵衛こそが天下を取るであろう」と言ったという。
数々の戦いを共にして来た中で、秀吉は官兵衛のあまりの切れ者振りにいつしか恐れを抱くようになっていたのだ。
家臣たちとのやり取りを伝え聞いた官兵衛は、黒田家を存続させるために44歳で隠居し、家督を嫡男・長政に譲り「黒田如水」と号した。
秀吉からの信頼度は、全幅の信頼を置いた半兵衛の勝ちである。
おわりに
筆者の個人的見解も交えて、竹中半兵衛VS黒田官兵衛を5つの視点から比較検証してみたが、結果は「3対2」と僅差で官兵衛の勝ちであった。
半兵衛の方が寿命が短く、どうしても実績的に劣ってしまうハンデがあるので、半兵衛の寿命が長かったらもっと凄い実績を残していた可能性は高い。
竹中半兵衛・黒田官兵衛、どちらか1人ではなく2人がいたからこそ、秀吉は天下人になることが出来たと言えるだろう。
2
この記事は大変面白い
秀吉が天下をとった理由が分かった
半兵衛に一票
この見解は公平ではないし、半兵衛がいなくては後の如水にはなっていない
若い頃の官兵衛は自尊心が強すぎて半兵衛にあってなければ大きな失敗をしていたと思う
個人的にはこんな記事は好き、半兵衛がもう少し生きて本能寺の変を知ったら、どうしていたのだろうか?
決着はいらないが最高の軍師は誰か?は面白いかも、草の実堂さん頼みますよ!
こんな視点で歴史もの書く人は歴史好きは皆思っているのに「筆者だってどっちか分からん」が正解かもしれないが、早死にした半兵衛を負けにするのはダメなの?ファンからすればいい記事だと思うよ。