下剋上の嵐が吹き荒び、血で血を洗た戦国時代。渦巻く野望の犠牲となったのは、決して男性だけ、武士だけではありませんでした。
今回は宗像大社(福岡県宗像市)の大宮司家・宗像(むなかた)氏の後継者争いに巻き込まれてしまった菊(きく)姫のエピソードを紹介したいと思います。
政略結婚と束の間の安息
菊姫は天文4年(1535年)、宗像正氏(むなかた まさうじ)と、正室である山田局(やまだのつぼね)の一人娘として誕生しました。
当時、宗像氏は周防国(現:山口県東部)を中心として、中国地方西部と九州北東部に大勢力を築いていた大内(おおうち)氏に従うことで勢力基盤を維持できていた状態で、正氏自身もしばしば大内氏のため各地を転戦していました。
「その方の忠勤ぶり、なかなかに殊勝である。我が右腕たる五郎(大内家の重臣・陶隆房)と縁を深め、共に大内家を支えて欲しい」
「ははあ……」
正氏は陶隆房(すえ たかふさ)の姪・照葉(てるは)姫を側室に迎え、天文14年(1545年)には鍋寿丸(なべじゅまる。後に宗像氏貞)、同じく16年(1547年)には色姫(いろひめ)を授かります。
「でかした……待望の男児じゃ!」
庶子とは言っても男児には変わりなく、主君・大内家の重臣である陶隆房の後ろ盾もありますから、これで宗像家も安泰……なのですが、正室である山田局は女児(菊姫)しか生んでいないため立場がなく(※)、次第に家中の権力を失っていくことになります。
(※)現代では考えられない(あるまじき)価値観ですが、当時は「男児を生む」ことが女性の至上命題とされていました。
「母上……」
母の立場を案じていた菊姫は、14歳となった天文17年(1548年)、従弟(※一説には叔父)の宗像氏男(うじお。氏雄)を婿に迎えます。氏男は永正19年(1512年)生まれの37歳、親子ほども年齢の離れた典型的な政略結婚です。
天文20年(1551年)3月4日に正氏が亡くなると、宗像大宮司家は氏男が継承することになり、菊姫と山田局は大宮司の正室と姑として一定の立場を確保できたのですが、その安心も束の間に過ぎませんでした。
どちらにつくか?運命を左右した決断
天文20年(1551年)8月28日~9月1日に主君・大内義隆(おおうち よしたか)が陶隆房の謀叛によって謀殺される(大寧寺の変)と、あろうことか夫・氏男は殉死(後追い自殺。一説には討死)してしまいます。
17歳になっていた菊姫との間には子供がいなかったため、宗像大宮司家に後継者争いが勃発するのです。
現時点における宗像大宮司家の後継者候補は、以下の2名。
一、宗像千代松(ちよまつ。氏男の弟)
支援者:宗像氏続(菊姫の舅)ら
一、宗像鍋寿丸(なべじゅまる。正氏の庶子で菊姫の異母弟)
支援者:照葉姫(菊姫の義母。陶隆房の姪)ら
亡き夫の弟か、腹違いの弟か……菊姫と山田局は、微妙な距離感の両勢力から板挟みとなってしまいます。
「……これは宗像家が、今後も大内に従い続けるか、陶に鞍替えするかの決断となろうぞ」
今は陶に勢いがあろうと、謀叛はいつまでも続かない……程なく鎮圧されるだろうと読んで千代松への支援を決断したのですが、これが二人の運命を決定づけるのでした。
「……よし、抜かるなよ」
明けて天文21年(1552年)3月23日、陶隆房の命を受けた石松又兵衛尚季(いしまつ またべゑなおすえ)は手勢を率いて菊姫と山田局らを闇討ち。
野中勘解由(のなか かげゆ)、嶺玄蕃(みね げんば)と共に屋敷へ乗り込み、菊姫親娘に仕えていた女房4名(小少将、小夜、花尾、三日月)ともども惨殺し、6名の遺骸は屋敷の裏手に埋められました。
果たして宗像大宮司家の後継者争いは鍋寿丸が制するところとなり、敗れ去った千代松と氏続は豊前国(現:福岡と大分の県境一帯)まで逃げたところで血祭りに上げられたということです。
エピローグ
めでたく宗像大宮司家を継いで宗像氏貞(うじさだ)と改名した鍋寿丸でしたが、その家中には次々と異変が起こりました。
菊姫たちの惨殺に関与した者たちや、その近親者が次々と不審死を遂げたり、原因不明の病に侵されたりなど異変が相次ぎ、誰ともなく怨霊の存在を噂するようになったのです。
「えぇい、我らは畏(かしこ)くも宗像三神をお祀りする大宮司家ぞ!怨霊などを恐れて何とするか!」
強がって噂を否定する氏貞でしたが、怨霊の極めつけは永禄2年(1559年。一説に永禄7・1564年)、妹の色姫が母の照葉と双六遊びに興じていた際、突如として「我は宗像大宮司・正氏が妻なり」と叫んで髪を振り乱し、母の喉笛に嚙みついたのです。
「よくも娘を殺し、大宮司家を乗っ取りおったな!」
「すわっ、姫様がご乱心ぞ!誰か、誰か御母堂様をお助け申せ……!」
近くにいた家臣たちが総出で色姫を引き離したものの、彼女(にとり憑いた怨霊)の怒りは収まらず、氏貞が慰霊の大法要を催したものの、祟りは後々まで尾を引いたということです。
氏貞……天正14年(1586年)3月3日、病死
照葉……事件からほどなく病死
色姫……天正12年(1584年)3月24日、嫁ぎ先と実家の争いを苦に自害
塩寿丸(しおじゅまる。氏貞の嫡男)……夭折
塩寿丸に先立たれたため、氏貞の死をもって宗像本家は断絶してしまったのでした。それでもまだ気が晴れないようで、ウソかマコトか、菊姫たちを惨殺した石松・野中・嶺一族の子孫は今でも祟られ続けているとも言われています。
※参考文献:
吉永正春『九州戦国の女たち』海鳥社、2010年12月
あなたは、言葉を巧みに使うお仕事についていますが、ペンが時には刀よりも人を傷つけること、ご存知なのでしょうか?
プロフィールを見れば、あなたは、これまでに世間に認められた「力」を持っているようですが、「力」を持った人がしてはいけないことをご存知でしょうか。
それは、「権力を持っているからといって、驕り高ぶってはいけない」ことです。力を持っているからこそ、その振る舞いが、正しいのか、間違っているのか、いつも気にしながら行動に移さなければならない、ということです。
あなたの文章が「血の通った文章」ですか。私には、人の不幸や悲劇を、面白がって書いているだけのように見えます。亡くなった方が、口を出せないのを良いことに、文章が誹謗中傷のように見えるのは、私だけなのでしょうか。
まず、宗像の「菊姫の呪い」とは、どういう証拠で書かれたのでしょうか。
今でも、宗像大社を大切に思っている人々は、菊姫様や山田御殿、その侍女達の魂が穏やかに眠られるように、祈る人達が絶え間ないというのに、それを「呪い」という言葉を発している気持ちがわかりません。
自分の能力が高いからといって、あなたが、正統な後継者達を侮辱する文章を書いたことに、私はとても嫌悪感を抱きます。
宗像大宮司家には、跡目争いなど始めから存在しません。菊姫達は、単に宗像大宮司家の地位の名誉を手に入れたかった者達の執着が起こした事件の被害者ではないですか?
正室達は大宮司を信じていたからこそ、よそで何をしようとも穏やかに生活されていたのではないですか。私には、大宮司家の財産を目当てに、自分の姪っ子をダシにした「陶」一族の野望しか感じられない事件です。また、姪っ子も姪っ子で、さすが血は争えませんね。自分の利益のためならば、人をも殺す極悪人ではないですか? だから、正室などに選ばれる訳がありません。
それともあなたは、菊姫が正統な後継者となることは、能力がなかったとお考えなのでしょうか。
男性優位の時代なのになぜ菊姫様のお母様が正室で、後継者だと認められていたのか、それは神の依代となりえる能力をお持ちだったからこそだと私は思います。
今、宗像が世界遺産となった途端に、宗像大宮司家の跡継ぎなどと主張する人達がいますが、人を殺したり、正室の座を脅かしたりしておいて、跡継ぎなどと宗像の名を穢す行為をしている人をかばうような文章をなぜ書かれているのですか。あなたも、同じようなタイプだからでしょうか。
菊姫様が亡くなられた時、年齢は未成年だったかと思います。正統な後継者だからこそ、身の清らかさが大切ですし、神様に仕える身だからこそ、穢れは御法度だとされること、あなたはご存知ないように思います。
あなたが生きてこられた世界では、「女性が侮辱の対象」だったかもしれませんが、宗像人は、女神を祀っていますので、女性に対して優しい土地ですし、女性も男性らしさを大切にする土地だと思います。
また、大宮司家のよそにできた子を、「跡継ぎだと、豊臣秀吉が認めた文章」が見つかったなどと、主張し始めた人達がいるようですが、豊臣秀吉は、それまで宗像が大切にしてきた大陸との交流を、「戦争」によって、ことごとく壊した人物ではないでしょうか。
秀吉に認められたからといって、なぜ「宗像人」が跡継ぎだと認めないといけないのでしょうか。
宗像の人達には、自分の利益のためだけに宗像大社の伝統を壊し、宗像を「血の海」で汚した人達に嫌悪感をいだく人もいるかと思います。
もちろん私も、そのような自分勝手な主張をしてくる人達と会う機会があれば、唾を吐きたいくらいです(菊姫様のことを思えば、殺されておいて、更に誹謗中傷してくるのですから、菊姫様達と同じ目に合いたいのか、などの気持ちになる人もいるかと思います。私はそこまで馬鹿ではありませんので、唾を吐きたいくらいの気持ちで抑えておきたいくらいです。実際には、そんな馬鹿馬鹿しい相手に、唾を吐くことはしませんが。
ですから、あなたの文章、宗像大社が好きなものとしていらつきますので、修正をお願いします。