今回は前編に引き続いて後編である。
武田晴信(信玄)は幼少期から聡明だったが、その聡明さが逆に小賢しいとされ父・信虎から疎まれてしまう。
親子関係は修復できないほど悪化し、ついに信玄は父・信虎を追放してしまうのである。
「信玄」は出家後の法名であるが、ここでは一般的に知られている「信玄」と記させていただく。
父を追放
天文10年(1541年)6月14日、信濃国から帰国した父・信虎が、娘婿の今川義元に会うために駿河へと出発した。
すると信玄は「兵を送り駿河との国境を封鎖せよ」と、信虎を帰国できないように駿河に追放してしまったのである。
この時、信玄21歳であった。
たった一人の犠牲者も出さないという「前代未聞の無血クーデター」を成功させたのだ。
こうして甲斐の国に戻れなくなった父に代わり、信玄が武田宗家の当主となったのである。
では何故信玄は父を追放したのか?それには幾つかの説がある。
① 父子不仲説
信虎と信玄の間には前述した溝があり、この溝は結局埋まることはなかった。
父は元旦に信玄には盃を与えずに、弟信繁に盃を与えたという。
これはどう見ても「当主の座は弟に渡す」という父のあからさまな態度である。このようなことが重なって信玄が父の追放を決意したという説である。
② 領国経営失敗説
信虎の悪政によって甲斐の国中が困っていた。領地拡大のために信濃に侵攻した信虎だが、他に武蔵国や相模国にも手を伸ばしていた。
その度に領民たちは戦に狩り出され生活が困窮した上に、大雨や台風によって大飢饉が起きて、飢えや疫病などで領民たちは疲弊していた。
それでも信虎は軍事行動を続けており「国主としての器量に欠けている」と領民や国衆、家臣たちまでもが不満を募らせていた。
更に信虎は怒りっぽく残酷な性格で、自分に歯向かう家臣を容赦なく切り捨てることもあった。
そんな信虎に不満を抱いた重臣の板垣信方や飯富虎昌たちは「反信虎」を掲げて信玄を擁立したのである。
信玄はそうした家臣団の協力を得て、父を追放したという説である。
③ 信虎と信玄の共謀説
徳川家康の事件などを記した「松平記」によると、この頃、今川義元の愚かさで今川家臣団が内部分列を起こしたという。
これを知った信虎は「今こそ今川を排除する好機」だと考えた。
そこで信虎はまず信玄に自分をわざと追放して駿河に留まるように仕向けさせた。そして信虎は今川義元に不満を持つ今川家臣団を武田側に取り込み、内部から今川氏を滅ぼそうと画策したという説である。※とはいえこの説は多くの歴史研究者から否定されている。
追放の真相は
実際には、まず父子の不仲説はその大きな要因の一つであり、信虎の領国経営の失敗も事実であった。
信虎は隣国と戦い続けていたため、経済封鎖を受けてしまう。それが原因で甲斐の国は飢餓や物価の高騰で悩まされていた。
そのため聡明な信玄は「このままでは武田家内に内乱が起きてしまう」と考え、「民衆を助けるため」という大義名分のもと、父を駿河に追放して国を変えようとしたというのが、信虎追放の真相だと考えられている。
実際に父を追放したこの年に、甲斐では100年に1度の大飢饉が起きていた。
信玄は「人々を救うために父を追放した」ということを演出することによって領民や家臣たちから支持され、そのため領国内での家臣たちの混乱も起きなかったという。
追放された信虎は駿河で隠居生活を送ることになった。
信玄は父の生活費などについて今川義元と協議し、不自由がないように手配もした。
逆に子供に追放された信虎は激しい気性ゆえ、怒りが収まらなかったとされている。
信虎は甲斐へ戻ろうとしたが、その願いは通じずに追放から33年後の77歳で死去した。
信虎が家督を継がせようとした信玄の弟・信繁は、武田二十四将の一人として当主になった兄・信玄を支えていくようになった。
信繁の武勇は目を見張るものがあり、武田二十四将の一人である真田昌幸は信繁の武勇を尊敬し、自分の次男に「信繁」と名付けたという。
その人物こそ、大坂の陣で「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称されたあの真田幸村である。
父を追放した信玄だったが、その後、有能な武将たちをまとめあげ戦国最強大名へと上り詰めていくのである。
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